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2017年5月26日 (金)

この人のしたことも記念として

マルコの福音書14章9節を読みます。

●9節.はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

「この人のしたこと」というのは、イエスが十字架につけられる前日、ベタニアのシモンの家におられたとき、ある女性が高価なナルドの香油をイエスの頭に注いだことです。

これを見て、男の弟子たちは、高価な香油を無駄にしないで、香油を三百デナリオン以上に売って貧しい人々に施したほうがよいのにと苦情を言ったのですが、イエスはこの女性のしたことをご自分の埋葬の準備と意味づけてこの言葉を語られたのです。

この物語でわかることは、男の弟子の関心は物の価値とか社会のことにむいていて、女の関心は身近な人への愛に、つまり、イエス個人への愛にあるということです。

女は、イエスが捉えられて殺されることを感づいていたのかもしれません。

このあと、イエスが逮捕され、裁判にかけられ、処刑されるのですが、男の弟子たちは巻き添えを食うことを恐れて逃げてしまいます。

そのとき、イエスへの愛の故に、恐れることなく処刑場までイエスにつき従い、 埋葬の場所を確認したのは、ガリラヤからイエスに従ってきた数名の女性たちだけでした。

もちろん、女性が処刑のために連れていかれるイエスに従うことが出来たのは、当局の女性に対しての取締は厳しくなかったこともあったのでしょう。

処刑場まで付き従った女性が、イエスが十字架に架けられた日を含めて三日後に、つまり、日曜日の朝に、イエスの遺体に香油を塗ろうとして墓を訪れました。

ところが、墓にはイエスの遺体はなく墓が空であることを知り、男の弟子たちに知らせました。

このように、イエスの十字架死の一連の出来事に(イエスの生涯の最も重要な出来事に)居合わせ、目撃し、その意味を理解し、それを伝えたのは女性であったのです。

「この人のしたこと」と表現して、福音書記者がイエスの死体に香油を注いだ人が女性であることとか、その女性の名を伝えなかったのは、当時は男性が支配する父権制社会であったので、(女性には何の権利もなかったので)女性であったことを特定せずに、このように表現したのでしょうか。

「記念として」というのは、イエスの最期まで付き従った女性たちのイエスへの愛は、今後イエスに対し献身的に生きるすべての女性の中で、これからは記念として語られるようになるということでしょう。

この当時のイスラエルの社会は、男性社会で女性は証人になれないし、人の数を数える場合は、子供と女性は数に入らなかったそうです。

しかし、このイエスの言葉が示しているように、キリスト者の共同体の場では、女性も男性もなく両性平等であり、また、現実に女性の働きがなければキリスト教会は成り立っていかないと思われ、標題の女性に代表されるように女性の愛の働きが忘れられたり、無視されてはありませんでした。

当時としては、画期的なことであったのでしょう。

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤの信徒への手紙3章28節)ということです。

そこには、つまりキリスト・イエスに結ばれて神の子とされている者の間では、男も女もないのです 。

女性も男性も同じく神の子なのです。

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