神にかたどって
創世記1章27節を読みます。
●27節.神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
これは聖書(創世記)の初めの言葉であり、人類誕生の初めの言葉でもあります。
この言葉の中で、人間は神にかたどって創造されたということを明確にしてます。
神にかたどってだから、人間は神の応答できる、交流できる存在として創造されたと言うことでしょう。
それは動物にはない、自由とか人格とか人権とか、総じて人間の尊厳は、人間が神のかたちに創造されていることの証だと思います。
神はイスラエルの民に、「わたしをおいてほかに神があってはならない。・・いかなる像も造ってはならない」(出エジプト記20章3節から4節)といわれました。
この戒めの言葉は、当然のことだと思います。なぜならば、人間も動物も神によって造られた被造物です。人間は、とくに神のかたちに造られたのです。
その被造物であるわたしたちに似せて像を造り拝することは、創造者である神をないがしろにすることになるからです。
古来人間は神の偶像を作って、その偶像を神として崇めてきましたが、神はイスラエルの民にはその偶像崇拝を厳しく戒められました。
イエスも同じことを言われています。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイの福音書6章24節)です。
「神と富」というように、富と神を対比させています。それは、富は神に対立する偶像としてとらえているわけです。富は、ときには人間を支配しますからね。
富、すなわち、財産とか経済力を唯一の頼りとして生きることは、神の形に似せて造られた人間の尊厳と人権を富の神(マモン)にささげることになるのです。
この聖句の「神に仕える」とは、神のかたちに造られた人間に仕えることを指し、神のかたちとしての人間の尊厳とか人権を最大尊重すること、守ることに至上の価値として奉仕するということでしょう。
といっても、富の象徴である財産とか経済力を軽視するとか、否定しているのではなく、富の使い方が問題で、そういうものを神の像である人間の尊厳と人権を守ることのために使うならば、富に仕えることにはならないと思います。
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