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2017年5月21日 (日)

神の恵みによって

コリントの信徒への手紙第一15章10節を読みます。

●10節.神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。 

これは使徒パウロの言葉です。

パウロはここで、自分が使徒であるのは、自分の意志とか努力でなく「わたしと共にある神の恵み」だと言っています。

パウロはもともと急進的なユダヤ教徒で、イエスを信じる者たちを迫害した者、神が遣わされたキリストであるイエスに敵対した者です。

そのパウロが、今はキリストの使徒としてキリストを宣べ伝え、使徒の中でもっとも大きな働きをするようになったのです。

それは自分の能力とか努力の結果ではなく、ただ、神が敵である自分を選び、敵をも無条件に受け入れる愛を持って、御自身のよいものを無条件で与えてくださった恵みによるのですと言っているのでしょう。

この言葉を今のわたしたちに当てはめれば、世の中で尊敬される地位を得るとか、立派な業績をあげたとき、それが自分の能力や努力で成し遂げた結果であると誇ることなく、神が与えてくださった能力や健康や境遇のおかげであるとして、その栄光を神に帰しなさいということでしょう。

わたしが今人間としてこの世に存在していること自体が神の恵みといえます。

わたしは自分の意志や能力や価値で存在しているのではないのです。

恵まれた環境の中に生まれ育ったならば、それは神の恵みであって、決してあなたの能力や価値の結果ではないのです。

わたしたちは、自分の存在自体が神の恩恵によるものであることを知るとき、わたしたちは無条件に、今どのような状況にあっても、存在すること自体を喜び感謝することができるのではないでしょうか。

恩恵によって存在しているという自覚は、神に愛されていることを自覚した時に得られるのならば、わたしの存在自体が神の愛を証していると言えないでしょうか。

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