何のかかわりもない
ヨハネの福音書第13章8節を読みます。
●8節.ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
この言葉は、「主の晩餐」と呼ばれる共同の食事の場でのことです。
それはイエスが捕えられる前夜の最後の晩餐でした。イエスの人生の最期の言葉です。
イエスに「かかわりがない」と言われる場合はどのようなときであろうか、と思い取り上げてみました。
ヨハネの福音書は「主が渡される夜」に最後の食事がされたことは伝えていますが、共観福音書のように、そこでパンとぶどう酒について語られた言葉は伝えないで、代わりにその食事の席でイエスが弟子たちの足を洗われたことを伝えています。
ヨハネは、共観福音書が伝えていないことを補足したのでしょう。
人が人生の最期に語る言葉は重要です。
共観福音書は、「これはわたしの体、わたしの血である」と、イエスはパンとぶどう酒を象徴としてご自分のことを語られたのを最後の言葉としていますが、ヨハネの福音書は弟子の足を洗うという象徴的な行為で語られた言葉をもってそれに代えています。
両方とも事実あったことなのでしょう。同じことを体験していても、人によって印象に残る出来事はいろいろです。
弟子たちの足を洗おうとしておられるイエスに、ペトロが驚いて「主よ、あなたがわたしの足を洗 われるのですか」と言います。
それに対するイエスの答えが、表題の、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」です。
つまり、主であるイエスに足を洗うという当時最も卑しいとされた奴隷の仕事をしていただかなければ、イエスは、わたしと何の関わりをも持つこともできないと言われているのです。
イエスとなんの関わりも持つことができないのならば、救いはないということです。
わたしたちが罪から救われるのは、復活の主イエスの代弁者としてこの世に降られた神の霊、聖霊との交わりに入ることが必要です。
聖書には、キリストの福音を受け入れれば、その人に聖霊が内住されると書いてあります。
ですから、そのこと自体がイエスと関わりを持つことになります。
そのためには、イエスの十字架死という神の恩恵である罪の贖いの御業を受け入れて、この生まれ持った古い命に生きる自分が死に、神の御霊、聖霊によってもたらされた新しい命に生きるしか方法がないと聖書は教えています。
復活者イエスとの関わりは、神の御霊、聖霊によってもたらされるのですから、わたしたちの側からできることは十字架の福音を信仰により受け入れるだけなのですが、その信仰自体も神の賜物ですから、結局、わたしたちに出来ることは、何もないのです。
このように考えると、師が弟子の足を洗うというのは、謙虚さの模範を示されたとする道徳的な面ではなく、イエスと関わりを持つことの重大さを物語っているように受け取れます。
なお、足を洗うというのが謙虚さの模範とし、倣うように言われているならば、キリスト者がこの世を生きる様として、それほど謙虚に隣人を自分のように愛することが求められていると言えるのではないでしょうか。
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