苦難のとき
詩編46編2節を読みます。
●2節.神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
この聖句も、クルスチャンにはなじみの深い聖句です。
苦しみのない人生などありません。それではどのような苦しみがあるのでしょうか、
病気による苦、仕事による苦、生活苦、人間関係からもたらされる苦等生きている限り苦しみの種はつきません。もちろん、人並みでない身体とか能力に苦しむ人たちも含まれるでしょう。
人を愛することは人生を豊かにしますが、その愛ゆえに苦しむ事もあります。
そうですね、愛するがゆえに受ける裏切りとか嫉妬などによりもたらされる苦しみは、耐えがたいものがあります。
問題は、そのような人生の苦しみをどのように捉え、どのように対応するかですが、古来、苦しみの中にある人の心の拠り所をわたしたちは宗教に、つまり、神とか仏に求めてきました。
苦難の真っただ中にあるときには、人は「なぜ、自分が」と苦難に遭ったことに嘆き悲しみ、時には絶望の淵に立ちます。
頼るべきものがなくなると、わたしたちは、神とか仏に問いかけますが、答えは返ってきません。
イエスは十字架の上で苦しみを極限まで味わわれました。次の聖句にある通りです。
マルコによる福音書15章34節「三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
少なくとも、その瞬間、神はご自分から離れられたとイエスは思ったのでしょう。ですから、人間として苦しまれたのです。
しかし、苦しみを共にされる神がイエスと共におられたのです。
それは、イエスが死から復活された出来事をもって証できます。イエスを死から復活させたのは、父なる神ですからね。神にしかその様なことはできません。
このように、イエスと共におられた神は、イエスの言葉を信じる者と共におられるというのが聖書の教えです。
そうです、苦難の現場にこそ、人間の苦しみを共にされる神がおられるのです。 わたしたちが眠っていても起きていても、忘れていてもです。
その神がわたしたちと共におられてわたしたちの苦しみを共に背負い、助けて下さっているのです。
十字架されたイエスを復活者キリストと信じるとは、このような苦難の現場において、キリストを信じる者と共におられる神の信実にわが身を委ねると言うことでしょう。
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