ただで受けたのだから
マタイの福音書10章8節後半を読みます。
●8節.・・ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
このイエスの言葉は、弟子たちを宣教に送り出すにあたって、10章7節で「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」、続いて8節前半で「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。」という命令の後に加えられた言葉です。
ただで与えるものは、「病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払」う能力です。
そういう神の善いものをあなたがたはただで与えられ、それを困っている人に与えるのだから、報酬を受けないようにと求める言葉でしょう。
そして、同時に神はわたしたちに、あなたがたがこの世を生きる上において、そのただでいただいた能力を実践しなさいと言っておられるのでしょう。
もし、あなたがそのような救いの祝福にある人生を歩めるならば、その人生は、あなたの資格とか価値に応じて与えられたのではなく、働きも資格もない者に与えられた父の無条件の恩恵の賜物だと言うことでしょう。
自分が無価値と自覚した時点から周りを見ると、すべてがプラスになり、感謝になるのですね。そうですね、無の立場から世間を見ると、何を見ても感謝、何がなくとも生かされていること自体が感謝になるのですね。
それが、パウロが手紙に書いている「キリストにあって」という生き方そのものでしょう。
その様な目で世界を見れば、世界は今までとはまったく違った様相を示すでしょう。
それまでは自分の働きや価値にこだわって、自分は不運だ、正当に報われていないという不満が心の奥底に渦巻いていましたが、今現に自分が受けている全てが、そう、自身の存在そのものまでもが、それを受けるに値しないわたしに対する父なる神からの賜物と思えてきて、すべてが感謝の対象でしかなくなるのでしょう。
恵まれて人生を送った人ほど不満が多いようです。足るを知らないということですね。
そうであるならば、自分が神からただで受けた善き賜物は、「ただで与える」ことが当然の生き方になります。
そうして考えれば、世間には神的能力を用いて金儲けをしている人がたくさんいますが、考えられません。
イエスは「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と言っておられます。
このことが実現した時が、完成した人間の姿なのだと思うのです。
キリストがその完成した姿です。キリストは「終わりのアダム」、すなわち終わりの日に現れる完全な霊的人間といえます。
キリスト者は、目に見えなくとも少しずつキリストに似た者に変えられていくのですが、それは人間の努力とか能力ではなく、神の霊、聖霊の働きによるのです。
といいましても、そのような事態が全ての人々に及ぶのは何時のことでしょうか。
現在の世界の現状を見れば、想像すらできません。
きっと、忍耐強い神は、最後の一人が救われるまで待って下さるでしょう。
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