善をもって悪に勝ちなさい
ローマの信徒への手紙12章21節を読みます。
●21節.悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
この聖句を読んでいて、初めに思ったことは、ここで言っている善とは何か、悪とは何かです。
善悪を一応一般的な言葉で定義すると「人が人として生きることを助ける行為が善であり、妨げる行為が悪である」ではないでしょうか。
具体的には、人の物を盗み、騙したり脅したりして奪う行為は悪です。
暴力で他者の身体に傷をつけ、何らかの方法で他者の健康を脅かすことは悪だと思います。
もちろん、暴言で他者の心を傷つけたり、中傷して名誉を傷つけたり、呪ったりする言葉も悪だと思います。とくに、心を傷つける行為は、肉体を傷つけることよりも傷が深いと思います。
問題は、憎しみを持って暴力に及ぶとか、暴言を吐く場合ですね。
憎しみは憎しみを生みます。憎しみは憎しみを持った人、そのために被害を被った人、両者の心を傷つけます。
そして憎しみが重なるとその人の人間としての本質を歪めてしまいます。そのようになれば、もう、救いようがありません。
最大の悪はやはり殺人だと思います。それも憎しみのはけ口としてなされる殺人は最悪です。
命は神様からの賜りもの。わたしたちがどうこうできるものではありません。
自分の主義主張のために、無関係の人を無差別に殺すのは悪魔の所業です。それこそ、悪魔がその人を支配して言えるのではないでしょうか。
それに対して、自他ともに生きるのに必要な物を生産し、それを公平に分配し、病を癒し、健康を維持増進し、精神的にも豊かに生きることができるように文化の質を高めることは善だと思います。
そして、イエスが言われたように、隣人がよく生きるために自分を犠牲にすることは最高の善となります。
キリストに属する者は、善そのものであられる神の子なのですから、悪を憎み、あくまですべての人に対して善に生きなければならないと思うのです。
だから、悪が自分に向けられたときでも、その悪に対して悪をもって報復するのではなく、善をもって対処するように求められているのでしょう。悪の連鎖を断ち切るということですね。
言い換えれば、キリストにある者はどのような状況においても、どのような相手に対しても、無条件に善だけをなすように求められていると思うのです。
もちろん、このようなことは誰にでもできるわけではなく、神の御霊、聖霊がキリストにある者に内住し、なさしめてくださるからできるのです。悪魔の支配からわたしたちを助け出して下さるのは、キリストだけです。
キリストにある者が悪に対して悪をもって報いるならば、悪が勝利し、人間は悪に支配されていることになります。 そこには神の御霊、聖霊はおられません。
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