自分の弱さを誇りましょう
コリント人への手紙第二 12章9節
●9節.すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
わたしたちは通常自分の強さを誇りにして生きています。
でも、イエスは「自分の弱さを誇りましょう」と言っています。
わたしのように誇ることのない弱い人間には、まことにありがたい言葉です。
強さを誇るとは、自分が持っている財力とか権力とか地位とか知識などを誇ることだと思います。
それらはこの世を生きるには、強い味方になることは間違いないでしょう。
この世を生きていく上で誰でもが必要として求めています。
そして、他者より多く得ることができれば称賛されますが、反面他者から妬まれ人間関係を不安定にするのも確かです。失うことを恐れて、心が不安定になることもあるでしょう。
ここでいう弱さは、そのような頼るべきものを持たないことを言うのでしょう。
それに、頼るべきものをもっていても、人生にはそのような頼るべきものを失い無力になる時があると思うのです。
たとえば、病気になって体力とか気力を失い、事業に失敗して資力を失い、定年になって地位と権力を失い、老年になって健康を失い知力や気力まで失うなどです。
この世の頼るべきものを追い求め、強さを誇りにしてきた人は、頼るべきものを失い、己の弱さに直面するとどうしてよいか分からず、ただ悲嘆にくれ 絶望するだけでしょう。
その様にならないように人は願い、あらゆる努力をするのですが、いつかは何らかの形で頼るべきものを失い、己の弱さを思い知らされます。
そういうことがなくても、最後には誰もが避けることができない死かすべてを奪い去ります。
それでは、先の聖句の「弱さを誇る」とはどういうことでしょうか。
確かに何も頼るべきもの、失うもの、守るものがなければ、恐れるものがなく気持ちは楽だと思うのですが、貧しさのあまり心がくじけるとか、弱さを誇るより心が委縮して惨めになるのが落ちです。貧すれば鈍するということわざもありますからね。
もし、「自分の弱さを誇る」ことができれば、何かを持つことを誇り、それを強さとして生きるよりも、どれほど心が平安に満たされるでしょう。
「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」(ルカの福音書6章20節)
このようなイエスの言葉があります。
これは、貧しい者は自分に頼るべきものがないから、苦しい時の神頼みという見方もありますが、神様を知ることができると言っておられるのだと思います。
キリストはイエスの言葉を信じるその様な者に助け手、聖霊送って下さいました。
聖霊は弱い者と共におられ、その者の助け手となって心を支え導いて下さるのです。
だから、その者は己の弱さを誇る強さが持てるのです。
その強さは、自分が持っている力から出てくるのであれば先に書いたように、自分の強さを誇っていることになりますが、弱さを誇る強さは、キリスト者のうちに宿る聖霊の力から来るので、誇ることなく逆に愛と平安に満たされるのです。
聖霊は、人が頑張って授かるものではなく、神様からの賜物ですから誇るべきものではないのです。
そうは言っても、キリスト者でもこの世を生きてゆくには、人並みに財産をも必要とします。
自己の能力を誇ることもあるでしょう。
人間である限り、現世を生きる限り、自分の持てる力を拠り所にして、誇りとする傾向は避けられないと思います。
わたしなどその傾向が非常に強かったのですが、年を取り、病に遭い、若い時よりも弱さを知るようになったと思います。
人はその弱さを知った分だけ、キリストの力はその人の内に現れるのではないかと思うのです。
よるべき力がすべて失われ、もう、神様にしか頼れないと言う事態になって初めて、キリストの力はその人の内で最も強くなるのだと思います。
キリストの力と言うのは、キリストを死から復活させられた方の力ですから、万能の神様の力です。
キリスト者は、この力を身に持って、死からの復活を現実の希望として現世を生きるのですが、反面、もし、自分が弱さの極致の中にいること担っても、むしろそれを喜んで誇るのです。
« 苦難をも誇りとします | トップページ | 不正にまみれた富 »
「心に残る聖書の言葉」カテゴリの記事
- わたしたちは待っています(2017.08.16)
- 御子はその体である教会の頭(2017.08.15)
- 死者の中から復活(2017.08.12)
- 福音は愛の言葉(2017.08.10)
- あなたがたも生きることになる(2017.08.09)
コメント