高ぶる目は低くされ
イザヤ書 2章11節
●11節.その日には、人間の高ぶる目は低くされ/傲慢な者は卑しめられ/主はただひとり、高く上げられる。
わたしたちは本性的に自分を他者より高くしたいと言う強い思いを持っています。
その本性が、余りにも当たり前になっているので、自分を他者より高くしたいと言う本性が罪であることは誰も気づかなくなっています。
現実に、人間関係の争いやもつれ、民族間の戦争や支配など挙げればきりがないと思いますが、すべての争いごとの源には、人間が自分(自分たちが)を他者(ほかの民族)より高く、つまり、強い武力を持ち、強い経済力を持ち他者を支配しようとすることから生じていると思うのです。
高ぶりは罪の根本であり、悪の源であると思います。
聖書はわたしたちがこの世でしたことの報いが必ずあると教えています。それは、わたしたちを造った神の義です。
神が最終的に人間の罪を裁かれるとき、裁かれる根源的な罪は何でしょうか。
それは人間の高ぶりだと思うのです。
高ぶりは、人間が、自分が神に造られた存在であることを忘れて、今自分が持つ価値あるもの一切が神に戴いたものであることを忘れて、それらをもって自分の価値を誇り、自分に栄光を帰せていることに原因があると思うのです。
その根源的な罪は、終わりの日の裁きのときに裁かれるのですが、この裁きはイエスが十字架につけられて死なれたときにすでに実現しています。十字架による罪の赦しは、すべての民族のためのものであるからです。
ただし、その罪の赦しの恩恵は、キリストが自分のために死なれたことをわたしたちが受け入れるときに初めて賜るのです。
キリストを受け入れなければ、御霊がわたしたちに内住しませんから、神様との交流が始まらないのです。救いたくても救いようがありません。
「キリストが自分のために死なれたことをわたしたちが受け入れる」と、言い換えれば、イエスの言葉を受け入れて心に留めた者は、聖霊がその者に内住し、イエスの十字架に合わせられて死に、高ぶりは砕かれるのです。それはキリスト教の秘儀です。
そのような恩恵の場に、つまり、自分が主張するこの世の価値が砕かれ、ただ神の恩恵によってのみ生きるとき、わたしたちは他者に対して高ぶることもなく、取り繕うこともなく、依存することもない自由な境地が開けるのだと思います。
国会図書館前の言葉である、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書 /8章 32節)と言うのはこのことだと思います。
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