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2017年4月11日 (火)

悲しむ人々は、幸いである

マタイの福音書5章4節

●4節.悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

人の人生はいろいろですが、誰でも、人生で一度や二度は労苦にために、あるいは病のために、生きることに真剣に向き合わなければならないときがあります。

しかし、その病が、その労苦があまりにも重く、絶望し、生きることを放棄したくなることもあります。
それは人としての弱さなのであろうがそれも現実です。

その様に弱っている人にイエスは「悲しむ人々は、幸いである」と語りかけられます。

一般的に健康な人は幸福で、病気の人は不幸だとされています。

しかし健康であっても泣いている人もいれば、病気であっても笑っている人がおられるのも事実です。

それに、たとえ健康であっても、病を患っていても、老いと死によってその人の人生はいやおうなくやがて終わるのは確実です。

それで、我々は、つい、何のために生きているのだろうかと、問いたくなるのです。

与えられた人生を生きる上での問題は、その体験から死を超える価値を人生に見いだせるか否かではなかろうか。

その様に思えば、病を患い、労苦に苦しみ、生死の境に立つ経験を持つ人の方が、生死を超えた、あるいは老いへの恐れを超越し、死を嘆くことがない境地に近いのではなかろうか。

その様に思えども、現実はおかれた不幸を嘆き負けてしまう人が何と多いことか。

もしそのように人生の労苦が人を生死の境に立たせ、生死を超える価値を見出させる機会となるならば、「悲しむ人々は、幸いである」と言えないだろうか。

そのためには、やはりイエスの言葉の力を借りる、つまり、聖霊の働きに身も心も委ねて人生の労苦を乗り越えることも必要なのでしょう。

生死を達観することなど、凡人にはなかなかできそうではありませんが、キリストの福音を受け入れて、聖霊の力を借りれば何とかなるかもしれません。

死はいつ来るか分からないと思います。死は、人の力ではどうしょうもないのも現実です。

死は自分の力ではどうしょうもないことで、否応なく誰にでもに訪れるのですから、死に意味を見出せなければ、人生の意味をも見いだせないかもしれません。

そこで生まれる考え方が、死と生の一部として相対化させることです。

経済的に恵まれ、健康に恵まれているがゆえに人生の真実に気づかないで、生と死を相対化する価値を見出すことができないとすれば、その人生は不幸であると言えるのではなかろうか。

わたしは来世を信じる者ですから、生に価値があるならば死にも価値があると思うのです。

だから、死は生の一部と思うのです。どちらかを絶対視するのではなく、どちらもわたしに課せられた人生の一部ではなかろうか。

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