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2017年4月11日 (火)

わたしには何も欠けることがない

詩篇23編1節

●1節.【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

クリスチャンの中では有名な聖句ですので、取り上げました。

イスラエルの民は牧畜を生業の一部としています。

この聖句は、神が、わたしたちクリスチャンの必要を満たし守ってくださっていることを、神を羊飼い、わたしたちを羊とするイメージで語っているのでしょう。

同じように、わたしたちクリスチャンは、イエス・キリストを羊飼い、わたしたちを羊とするイメージで、その関係を語ります。

その関係は、2000年前においても、2000年後の今においても(聖霊を代弁者として)、イエスは変わることなく羊飼いとして、羊である信者を励まし続けておられるのです。

イエスは、「わたしはよい羊飼いである」と言われました。

ですからクリスチャンは、復活者イエスに、つまり、聖霊に導かれている羊として、新しいいのちを下さった父なる神に全幅の信頼を置いて、明日を心配することなく、欠乏を意識することもなく生きていけるのです。

神は、キリストの御霊によって生まれたこの新しい命を養い育てるために、必要なものはすべて備えてくださるはずです。

そして、必要があれば、祈り求めていけば、イエスが執り成して下さり、必要なものは備えてくださるのです。

キリストの民は、新しく自分の内に生み出された「永遠のいのち」をもっています。

その新しい命を下さって、その命を完成させるために、守り育てるために必要なものは、すべて備えて下さるのは、それが神の創造の御計画である限り当たり前です。

と思いましても、わが身を振り返れれば、その進行は遅々として進まず、自分の信仰に不安を覚えます。

しかし、どのようにしてよいか分からないので、ただ祈ひたすら御言葉を読み祈るだけです。

この投稿文も、自分に思い聞かせるように書いています。

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