御言葉
エレミヤ書15章16節
あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。
この聖句は、預言者エレミヤの御言葉体験です。すごいですね、神の言葉を「むさぼり食べました・・心は喜び躍りました。」と言っています。
この状態を表現すると、神の言葉は、食物を食べると消化されて食べた人の体の一部となるように、その人の存在そのものになって、その人は神の言葉によって生きるのです。
神の言葉はエレミヤにとって、生きる喜びであり、活きる命そのものなのでしょう。
羨
ましく思いますが、預言者は神に選ばれた人です。神に選ばれた人の人生はすさまじい人生を送っています。わたしなどそれを知ると後ずさりしてしまいます。
やはり、普通の人間でよかったと思います。
人生において、人がどのような言葉に出合い、どのような言葉に生きるかによって、その人の在り方が決まりまると思うのです。
わたしは聖書を読みイエス・キリストが語られた言葉と出来事の中に神がわたしたちに語りかけられている言葉を知りました。
その言葉は福音を告知する言葉でした。福音はただの言葉ではなく、その言葉を信じ心に留める者を救いに至らせる神の力です。
もちろん、その言葉を信じ心に留めるとは、言い方を変えれば、自己の全存在を神の言葉に委ねて生きること。
そう、「それをむさぼり食べる」者に永遠の命を与えるパンです。
イエスが囚われの身になる前日に弟子たちに語られました。
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」(マタイ26の26)と言われました。
この聖句によると、イエスは神の言葉が具現化した存在です。パンをとって食べることは、その神の言葉であるイエスを食べることを象徴しています。
神の言葉を「むさぼり食べる」ですから、わたしたちは神の言葉に飢えているのです。
わたしたちは、神の御計画によって創造されたのですから、神の言葉によって生きるのが本来の姿です。
アダム以降わたしたちは神から離反した状態にありますので、神の言葉に飢えているのです。
神の言葉そのものであるキリストの福音を信じ受け入れて、心に留めて生きる時、御霊がその者に内住され、神の言葉はわたしの内で働き、わたしたちは、その神の言葉によって変容するのです。それがキリスト信仰だということでしょう。
そのとき、わたしたちの心は言いしれぬ平安と歓喜に満たされます。それは、神の霊、聖霊がその人の中で働かれていることの証と言えます。
神の言葉(福音)が語られる場では、神の霊が働かれます。福音は、紙に印刷された言葉やコンピュータのデータとして伝えられるものではありません。
神の言葉には、神の命が宿っていますから、人から人へ、心から心へ語りかける言葉として伝えられます。
福音がそのように語られる場では、聖霊が働き、その聖霊の働きがその人の内で新しい命を創造するのです。
それは御言葉によって生まれたわたしであり、また、御言葉によって生きる、そう、永遠に生きるわたしたちの本来の姿なのです。
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