主と共に生きる
テサロニケの信徒への手紙第一 5章10節
●10節.主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。
「主は、わたしたちのために死なれた」という言葉は、もちろん、イエスの十字架を意味するのでしょう。
「目覚めていても」というのは、キリスト者が生前において、神の御霊、聖霊という御霊を内に宿し生きている状態を言い、それは、主と共に生きているといえます。
「眠っていても」というのは、そのキリスト者が死んだ(肉体が滅んだ)ことを表して、その死は主から切り離されたのではなく、先に死んだ者たちと一緒に主と共に生きるようになるためであると言うことでしょう。
キリストに属する者は、死んでも主、つまり、イエス・キリストと共に生きるのです。
ヨハネの福音書11章25節はこのことを、「わたしを信じる者は死んでも生きる」と表現しています。
言い換えると、救いとは、「永遠の命」のこと。「永遠の命」とは、死んでも生きる命のことと言うことになります。その命は、主と共に生きる命です。
このように書きましても、その状態がどのような状態なのかはよく分かりません。
ただ一つ確かなことは、地上で共に生きていた主イエス・キリストが、死後の世界においても一緒にいてくださるということです。
これがなぜ確かかと言いますと、それは、この世において聖霊によって「主と共に生きる」者の聖霊体験から生まれた言葉だからです。
パウロは、そのことを信仰と愛と希望に生きると言っています。
その現実は、「死んでも生きる」という人間の常識を越えた現実ですが、パウロのいう「キリストにあって」生きるときに初めて確信が得られるのだと思います。
そして、最終的に、キリスト者は死者の復活にあずかることによって、復活された主イエスと共に生きることが完成するということでしょう。
復活の希望も、「主と共に生きる」という救いの現実の先にある希望なのですね。
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