フォト
2023年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

« 主と共に生きる | トップページ | わたしには何も欠けることがない »

2017年4月11日 (火)

肉となって来られた

ヨハネの手紙Ⅰ 4章2節

●2節.イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。

「・・公に言い表す霊」は、三位一体の神の三位格である聖霊を指し、聖霊はキリストの福音を受け入れて、心に留める者に内住します。これが神の約束です。

聖霊は、キリストの福音を代弁し、信じる者に働いて真理を知らしめるのです。

ですから、キリスト信仰は、「イエス・キリスト」を信じる信仰、つまり、聖霊によって、イエス・キリストと交わり成立する信仰と言えます。

パウロの言葉で「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(コリント信徒への手紙Ⅰ 1章9節)とある通りです。
 
パウロはこのような生き方を、「キリストにあって」と表現しています。

それは、聖霊なるキリストが働かれている場で、御霊と共に生きるキリスト者の生き方を指しているのでしょう。

その御霊との交わりは、わたしたちの努力によって成り立つのではなく、キリストがわたしを愛して、わたしに働きかけてくださる、つまり、聖霊となって働きかけて下さることにより、初めて成り立つキリストとの交わりということでしょう。

つまり、それがキリスト信仰だということです。

キリストとは、約2000年前にイスラエルのナザレで生まれた大工の息子イエスという名の一人の男が、十字架につけられて死に三日目に復活してキリスト(救い主)となられ、聖霊として今もわたしたちに働きかけておられる方です。だから、キリストとイエスは一体です。

イエスが復活されたこと(キリストとなられたこと)を告白するのが復活信仰で、そのキリストが、2000年前にこの地上で生まれたイスラエルのナザレのイエスであったことを告白するのが受肉信仰だと言うことでしょう。

« 主と共に生きる | トップページ | わたしには何も欠けることがない »

心に残る聖書の言葉」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 肉となって来られた:

« 主と共に生きる | トップページ | わたしには何も欠けることがない »