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2017年4月24日 (月)

不正にまみれた富

ルカの福音書 16章9節

●9節.そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

「不正にまみれた富で友達を作りなさい。」とはどういうことでしょうか。

どのように考えればよいのか、難しいところです。

わたしも困惑しました。色々調べてみて、次のように理解しました。

まず、ここでいう「富」とは、財産だけではなく、才能や知識、またそれで得た地位や名誉、そして、健康な体、すべてこの地上で価値あるもの、すなわち、わたしたちが神から賜っているものすべてを言うのだと思います。

「不正」と言うのは、富を得る手段が正しいか不正かという問題ではなく、どのように正しい手段で得た富であっても、その富を自分の努力で得たとし、その栄光を自分に帰せている場合、そして、人間がそれを神様のためにではなく、自分のために自由に使える所有物だとするとき、その富は不正の富となる、ということでしょう。

つまり、「富」というのは、わたしたちが持っている富、この世で価値あるとされる一切のものを指し、それは、神様の栄光のために用いるように神様からわたしたちが託されたものであるということでしょう。

この個所はルカの福音書16章1節から13節の「不正な管理人」のたとえ話の一部ですが、そのたとえ話は、金持ちの主人に財産の管理を任された管理人が、自分が解雇された時に備えて自分を迎え入れてくれる友を作るために、主人に借りのあるものを一人ひとり呼んで、借用証の内容を少なく書きなおし恩義を売ったと言う内容です。

このような管理人のやり方は、道義的にはやってはならないことですが、イエスはこの「不正な管理人」が解雇の危機に備えてとった抜け目のないやり方をほめて、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」(ルカの福音書16章8節)と言われたのです。

これは何もこのような行為そのものを賞賛しておられるのではなく、彼らが危機を認識して機敏に対処した賢さをほめて、「光の子ら」が自分たちの事柄について、すなわち「神の支配」の到来に備えるということについて、彼ら以上に賢く行動することを求めておられるのでしょう。

世間の人々が自己の危機に対処する賢く立ち回る機敏なやり方を見て学び、あなたがたは彼ら以上に真剣にかつ敏速に決算の日[裁きの日]に備えよ、と言っておられるのです。

だから、ここでイエスが言っておられるのは、自分に賜っている一切の富を自分のために用いるのではなく、神様のために用いて、神様に喜ばれる友として生きなさい、ということでしょう。

永遠の住まいに迎え入れて下さるのは人間の友人ではなく神様ですからね。

世の富はわたしたちがこの世を去るときには、何の役にも立たない。そこにあるのは自分と神様との関係のみです。その時に神を友とすることができるように、今ある富みを用いなさいと言うことでしょう。

もちろん、神様のために富を用いるというのは、何も教会に財産を捧げて、その活動を助けることだけではなく、自分が持っているすべての価値あるものを、それを信徒であろうがなかろうが、必要とする者(小さな者)にささげて隣人を助けることが、神様のために富を用いることだと思うのです。

神様は、教会という組織におられるのではなく、信徒一人ひとりに、信徒の交わりの中におられるのです。

もちろん、信徒以外の人々も間違いなく神様の被造物ですから、自覚しているかどうかは別にして、そこにも神様はおられるのです。

そして、神様は、すべての人が救われるように願っておられると思うのです。
ここでも、「隣人を自分のように愛しなさい」というイエスが言われた愛の律法がみられます。

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