善をもって悪に勝ちなさい
ローマの信徒への手紙12章21節
●21節.悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
テレビを見ていると、最近、僅かの金のために命を奪うとか、親が虐待で子供の命を奪うとか、学童がいじめにあい自殺するなど痛ましい事件が続いています。
命は神様からの賜り物、創造主である神様は意味があってその命をわたしたちに与えられたのです。それを被造物である人間が奪うことなどもってのほかだと思いませんか。
だから、命を救い養うことは無条件に善であり、命を奪うことは無条件に悪だと思います。
命を奪うことを正当化する根拠はどこにもありません。
特に憎しみを持って人の命を奪うことは究極の悪です。その憎しみはその人の心を蝕むからです。
しかし聖書は、キリストにある者は、悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさいと教えています。
このようなイエスの言葉もあります。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイの福音書5章44節)です。
敵とか迫害する者の中には、自分を殺そうとする者も当然含まれます。
そうであれば、殺されても殺すなと教えていることになります。しかし、その様なことは、人間には不可能です。
なぜならば、人間には自分を守ろうとする本性(防衛本能)が備わっていますから、その本性に反することだからです。
その本性は神が人間の供えられたものですから、矛盾ですね。
殺されても殺すなというのは、究極の善なのでしょう。おそらく、神は人間をそのような質の命に生きる存在に造り替えようと、いや、その様な人間ばかりになれば、殺人事件など起こりませんね。自分を愛するように他者を愛する愛が当たり前の世界になれば・・・夢みたいな話です。
キリストの福音は、不可能と思われることを可能とする神の力だと思うのです。
事実人間の歴史の中に、「殺されても殺さない」という教えに忠実に生きた人間が、数は少なくても生みだされてきたのは事実です。
そういう事態が当たり前になる時は必ず来るのでしょう。キリストの福音が、神の力がそれをなさしめてくださると思うのです。そのような希望をもって、この世を去ることが出来れば、最高です。
この神の力と言うのは、もちろん、三位一体の神の三位格である聖霊の働きのことです。聖霊は、神の新しい人間の創造の御計画の実働部隊ですからね。
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