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2017年4月15日 (土)

神は真実な方

コリントの信徒への手紙I 1章9節 

●9節.神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

アダムの子孫である我々は、アダムが悪魔に唆されて神から離反した状態を受け継いでいます。

神から離反するという罪から救われて、神との交流が復活し、神と共に永遠の命を生きることを告知するキリスト信仰とは、イエス・キリストとの交わり、つまり、神の御霊、霊なるキリストとの交わりの現実に生きることだと思います。

神の子であるキリストとの交わりに生きることによって、わたしたちも神の子としての現実に生きることができる。

そして、そのような意味の信仰は、人間の側の努力で達成できるものではないので、キリスト信仰はあくまで受け身の信仰です。

なぜならば、罪びとである人間は自分の罪を自分で赦すことはできませんので、創造者である神の愛と慈悲にゆだねるしかないからです。

キリスト信仰は仏教とかほかの宗教と違って、教祖を仰いで、その方の教えに従順に、忠実に生きようとする人間の誠意とか努力の問題ではないのです。

つまり、ほかの宗教は、まず行いを求められるようにキリスト教は、まず福音を受け入れることが求められるのですが、その信仰も、神からの賜物なのです。

あくまで、行いはその結果であって原因ではないのです。

もし、信仰が行い、つまり、人間の誠意とか努力の問題ならば、行いには当然個人差が産まれますから、差別を生み、争いを生みます。キリスト者の信仰はとっくに破たんしていると思います。

人間の弱さ、すなわち、不誠実、動揺、懐疑などどのような状態にも拘わらず賜物として賜る信仰、無条件の恩恵と言う神の一方的な信実が、「主イエス・キリストとの交わり」という意味のキリスト信仰を可能にするのだと思うのです。

キリスト信仰を成り立たせる根拠は、人間の信実ではなく神の信実なのです。人間の信実ほどあてにできないものはない。

神の信実は絶対で限界がありませんから、招きの言葉、約束の言葉、恩恵の言葉、契約の言葉を必ず実現して下さると言う信仰が持てるのですね。

それは本当ですかと問われそうですが、聖書は、信じる者は救われると言っています。

その信仰は、霊なるキリストとの交わりという現実に生きることにより確かなものとなり、来世での復活の希望の根拠ともなるのです。これは、体験してみなければ、分からないことです。

言葉とか、理屈で科学的に説明できれば良いのですが、何しろ、神の御霊の働きの結果ですから、どうしょうもありません。

このように、わたしたちは自分のいのちと将来を、自分の信仰にではなく神の信実にかけるのですが、その信実は宇宙万物の存在よりも確かです。

なにしろ、宇宙万物を創造された方の信実ですからね。

このように書いていますが、わたしもキリストと個人的に交わっていますかと問われると、正直、わたしは不安になる時もあります。

信仰の確かさとか、キリストの御霊との交わりの確かさを牧師に問われるのですが、パウロのような経験があればよいのですが、そうではないから自分がどうなのかよくわからないのです。

ということで、信仰の確かさとか御霊との交わりを正されても、それらが賜物ならば自分の意志でどうこうできるものではなく、正直、困惑します。

その人の信仰は他者には分かりません。また、本人がわたしの信仰は本物で確かですと言っていても、神の目から見れば分かないと思うのです。

やはり、最終的なことは終わりの日の裁きの時を待たなければならないのではと思うのです。

わたしにできることは、ただひたすら聖書を毎日読み、御言葉を心に留めて日々暮らすことしか浮かびません。そして、あとはキリストの愛と慈悲を信じ、神の御霊、聖霊の働きに委ねるだけです。

このようなことを書いているわたしが、キリスト信仰に入るきっかけのなったのは、聖霊の働きを、身をもって体験したからなのです。

誰にも証明できませんが、少なくともわたしはそのように信じています。信じる者は、救われるのですからね。
信仰が神からの賜物ならば、キリストとの個人的な交わりを得ることも賜物でしょう。

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