決して死なない者がいる
マルコの福音書 9章1節
●Ⅰ節.イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現われるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
人は必ず死ぬと言うのが常識ですが、そうするとイエスのこの言葉は、その常識に外れています。
この聖句を読むのには、イエスは神の子で、次元を超えてわたしたちを見ておられるというのがポイントでしょう。
「神の国が力にあふれて現われる」時とは、神がご自分の民(イエスの言葉を信じ留めてこの世を去った者のことでしょう)に、生まれ持った骨と肉の体に代えて、朽ちることのない霊の体を与えて、その支配と栄光を現わされる時ということでしょうか。
「・・のを見るまでは、決して死なない者がいる。」というのは、この地上に生きている間にイエスに出会って、死を体験することがない者、つまり、生まれ持った骨と肉の体に代えて、朽ちることのない霊の体を与えられる者、復活の命に与る者がいまここに一緒にいる者たちの中にいる、とイエスは断言しておられるのでしょう。
初代の信徒たちは、聖霊に迫られて、自分たちの生前中にイエスが再び来られて、このことが起こる。その時が差し迫っていると確信していました。
だから、信徒たちは自分たちの財産を処分して、持ち寄って共同生活をしていたのだと思います。
パウロの手紙、第一コリント15章52節に「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」とあります。
このように、今生きている信徒がこの地上にいる間に最後のラッパが鳴り、再びイエスが来られると信じていたのだと思います。
信徒はおそらく、イエスが再び来られて、復活の命に与る前に、「眠りについた(死んだ)」人がいることを意外に思っていたのではないでしょうか。
現実には、彼らの生存中には(今現在も)「最後のラッパ」は鳴らなかったのです。
それでは、イエスが「それを見るまで死なない者がいる」と言われたのはどういうことでしょうか。
これは、歴史を超えて、誰かが、あるいはどの世代かが死を味わうことなく栄光の体に変えられることを体験するはずである、と言われたのではないでしょうか。
それを弟子たちは自分たちの世代に起こることだと受け止めていたのだと思うのです。
言いかえれば、それほど聖霊の働きが活発であったので、信徒は信仰に、再臨の希望に燃えていたのでしょう。ゆえに、厳しい迫害にも耐えることができたのではないでしょうか。
イエスは、この言葉をすべての時代、すべての世代に向かって語られていると思います。
すなわち神が死者を復活させられる時を、地上に生きていて迎える者がいるが、その時、自分もその中にいるかも知れないし、もう既に眠りについているかも知れない。
大切なのは、イエスと共にいて、死者の中からの復活にせよ、地上にいて変えられるにせよ、その時が来れば、霊の体を与えられて神の栄光に与れるかどうかだけが問題だということでしょう。
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