悪霊憑きの病と悪魔について
今回はちょっと難しい聖句の解釈に挑んでみます。それは次の聖句です。
マタイの福音書第17章14から20節です。
●14節.一同が群衆のところに行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、
●15.言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々(たびたび)火の中や水の中に倒れるのです。
●16節.お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」
●17節.イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか、いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しな ければならないのか。その子をここにわたしのところに連れて来なさい。」
●18節.そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。
●19節.弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。
てんかんは今では脳の障害からくるものと聞いていますが、この時代てんかんのような症状であっても、それが脳の障害から来るのか悪霊が原因なのか区別はできないと思うのです。
おそらくイエスはここに出てくる子供の症状をみて悪霊が原因だと判断されたのでしょうね。
イエスが悪霊を追い払うと、子供は癒されました。
それは、その症状が悪霊に対するイエスの命令の言葉によって癒されたことから推測することができます。
もちろん、悪霊が病をもたらすことを認めておられない方はご不満でしょうが、そのことは科学的に証明できないことですから、あとは信じるか否かの問題ですのでここではそのことは取り上げません。
次に弟子たちの「なぜ、わたしたちには追い出せなかったのでしょうか」という言葉ですが、この表現からすると弟子たちは当然自分たちにもそのような力があると思っていたのでしょう。
これに対してイエスは、マルコの福音書第9章29節によれば、「この種のものは祈りによらなければ決して追い出すことが出来ないのだ。」、と応えられたと書いてあります。
「この種のもの」とは特殊をあらわしているので、この子の場合は、永年子供に取りついていて、子供の人格に深く入り込んでしまった悪霊のことを指しているのでしょう。
そういう霊はもはや弟子(人間)の熱心な信仰だけでは追い出すことが出来ないのですね。祈りによる、ということは、神の力に委ねるしかないということだと思います。
神が強く働いてくださるのでなければ不可能であるということでしょう。
であれば、こういう場合は、人間にとって出来ることは、ひたすら神にすがり祈るしかないということでしょう。
ここに関するところでマルコの福音書のつぎのようなイエスの言葉があります。
マルコの福音書第9章21節から24節、「イエスは父親に、「このようになったのはいつごろからか、」とお尋ねになった。
父親はいった。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい。」
イエスは言われた。「『できれば』というか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい。」
祈っても、「できれば」ではだめなのですね。
できれば、というのはまだ疑っているのです。神を信じ切って祈ることが必要なのでしょう。祈るときの態度が示されています。
次に、イエスの言葉、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」ですが、この言葉の裏には当時のイスラエル民族の置かれた背景があると思うのです。
神はイスラエル民族を選び、育て、イスラエル民族を通して全人類を罪の中から救い上げようとされたが、イスラエル民族は神が与えた律法を自分たちの律法にしてしまい、イエスに偽善者と言われた一部の特権階級が独占し、神の御心から外れてしまいました。
不信仰な時代が極まった時を終わりの時代といいますが、それはイスラエル民族を通しての人類の罪からの救いの業が終わったと解釈したいと思います。
その終わりの時代に神はイエスを、イスラエル民族を通して人類を救いあげる最期の業としてイエスをイスラエル民族の中に使わされました。
それでもイスラエル民族はイエスを受け入れず、十字架で殺してしまいます。
イスラエル民族は本来なら信仰によって、神の子イエスを受け入れ、悪魔の支配から完全に解放されて、神と共に生きる栄光の姿になっていなければならないのに、イエスを信じることなく、いつまでも神に背を向けたままで悪魔の支配から解放されないでいる現状に嘆かれたのだと思います。
その言葉は「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか、」に現れています。
イエスはこのようなイスラエルの宗教指導者の空虚な宗教論議だけが際限なく続く状況を不信仰の時代と言われました。
<参考、この世の支配者について>
この宇宙は、創世記以降悪霊が支配しているという設定です。神は悪霊を作れないので、彼らの前身は天使です。
天使の長が、神に逆らう気がなくても、「自分も神の名のように、賛美される立場になりたい。そういうことをさせられるような自分の国が一つほしい」と思うようになり、部下の天使に命じて王国を造ろうとしました。
そうすると、神との交流がだんだん少なくなり、天使の長が変質して悪魔(サタン)になったのです。
そして、サタンになった天使の長は天使の内三分の一を配下に置いたのです(イザヤ書14章12-15)。
イエスは悪霊と化した天使達を閉じ込める暗闇を作りました。そして、彼らをその暗闇に追い落としました。
ペテロの手紙第二2章4節は、「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄(天と宇宙を造る前の混沌とした宇宙)に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。・・・」、とあります。それが、このわたしたちが住む宇宙であり、地球なのです。
広大な宇宙という牢屋の中に無数の罪人(悪霊)が閉じ込められました。
そこに創造主である神は海を造り、空を造り、陸を造り、自然を造り、動物を造り、エデンの園を作り、わたしたち人間を作っておいたのです。
このわたしたちが住む宇宙は悪魔の牢屋でしたので、この宇宙の支配者は悪魔ということになります。
そこえ、神の御子イエスが来られて支配権を取り戻し、この宇宙は神の支配下となったのです。
そのことは次の十字架にかけられる前に弟子たちに言われたイエスの言葉が示しています。
ヨハネの福音書第14章30節の「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。」
世の支配者は悪魔のことだから、世の支配者が来てわたしを十字架に架ける、もう時間もない、ということでしょうか。
十字架はまさに神の御子イエスと悪魔の戦いの場だと言うことですね。
ヨハネの福音書第14章31節「今こそ、この世が裁かれるとき。今、この世の支配者が追放される。」
この聖句の「・・この世が」というのは、つまり悪魔が支配する我々が住んでいる世ということでしょうか。「・・とき」というのは、イエスの十字架の時ですね。
「裁かれる」というのは、悪魔はイエスを十字架に架けることで勝利したように見えると同時に悪魔の神に対する反逆の罪は確信犯になる。
ところが、イエスが復活したことによりイエスが悪魔に勝利しました。
悪魔の罪を明確にすることで、悪魔が支配するこの世がイエスの十字架で裁かれたことになり、この世の支配者(悪魔)が追放されることになる。
つまり、イエスの十字架死と復活により、この世は、悪魔の支配から神の支配に移るということですね。
この世が神の支配に移っても、その神の支配は一気に完成するものではなく、あくまで人間の自由意志による選択と働きに委ねて、この悪魔の支配する世の中に神の支配するエリアを少しずつ広げていくという手順なのです。
面倒な方法ですが、人間の自由意志をあくまで尊重することが、新しい人間の創造には必要なことなのでしょうね。
支配権が悪魔から神に移っても悪魔は殺されたわけではないので、未だにこの世に影響力を及ぼし続けているが、それも、神の御心のうち(神が許されている範囲で)で意味あってのことだと思います。
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