永遠の贖い
ヘブライ人への手紙9章12節
●12節.雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
「雄山羊と若い雄牛の血」というのは、いわゆる宗教祭儀、清めの儀式を指しているのでしょう。
伝統宗教、新興宗教にかかわらずどの宗教にも何らかの形の祭儀があります。
そして、その祭儀を執り行う祭司がいて、祭儀が行われる施設としての神殿があります。
旧約聖書のころのユダヤ教の祭儀も同じであると言えます。
ところが、一世紀から二世紀の初めの最初期のキリストの民は神殿を持たず、祭司が執り行う祭儀もなく、個人の家に集まってひたすら再臨を祈り、聖書を読み、使徒はイエスの教えとか出来事を繰り返し伝え、キリストを賛美する歌を歌い、食卓を共にしてキリストの死を記念し、交わりを持っていたと言うことです。
それに、当時キリスト教は独立した宗教ではなく、ユダヤ教の中の一つの派(「この道」とも言っていました、使徒言行録9章2節、19章9節ほか)であったのです。
ユダヤ教から独立したのは、紀元70年のユダヤ戦争敗戦以降と言うことです。
この聖句は、キリストが十字架の上で血を流して死に、三日目に復活して高く上げられた出来事を、ユダヤ教の神殿祭儀で行われる大祭司の働きを比喩として用いて語っているのでしょう。
解説には次のように書かれていました。ユダヤ教の大祭司は年に一度「贖罪の日」に犠牲の動物の血を携えて隔ての垂れ幕を通って至聖所に入り、契約の箱の上の「贖罪所」にその血を注いで、民の罪のための贖いを行っていたと言うことです。
キリストの十字架と復活は、予表としてのユダヤ教大祭司の行う贖罪の祭儀の実現であり、祭儀の本体に当たると言うことでしょう。
キリストは十字架の上に贖罪の血を流し、復活して、この物質の世界と天界を隔てる幕を通って天上の神の前にその血を捧げて、一度きりの人類の罪の永遠の贖罪を成し遂げられたのです。
これが実現した以上、もはや地上で死ぬべき人間が祭司として祭儀を繰り返す必要はないということになります。
キリストの罪の贖いにより宗教祭儀は永遠に不要になったのです。
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