わたしと共にいてくださる
詩篇23編4節
●4節.死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
本当に人が死ぬ時は一人なのでしょうか。
たしかに死にゆく人を見ている限り一人で死んでいくように見えます。
死は一人ひとりに 起こる自分だけの出来事といえます。他人の死を体験するとか、自分の死を他人に体験してもらうことはできません。
もし、この泣いたり笑ったりするわたしという存在と、滅びゆくこの肉体が別の存在だとしたら、死を体験する身体はわたしの本体ではないのです。
わたしとは、身体に起こる死(細胞の死)という出来事を不安に思ったり、恐れたりする主体といえます。
そのわたしという存在は、人生で関わった人、つまり、家族や知人・友人、そのほかあらゆる機会で縁あって関わりをもった人たちとの交わりの中で、その人たちから影響を受けて形成された人格といえます。
肉体の滅びという死の局面に臨んでも、そのかかわりの中で形成されたわたしが変わるものではありません。
肉体の滅びもわたしという人格を形成するための体験の一つと言えないだろうか。
科学者の中には、死は生の一部と捉えている方もおられるそうです。死は細胞の滅びであって、霊魂の滅びではないのです。
だから、わたしの中には、人生でわたしを形成するのに関わった人々は生きています。
「わたし」はひとりではなく、それらの人たちと一緒に身体の機能の終焉に直面するのです。
だから「人は生きてきたように死ぬ」と言いますが、そういうことが言えるのでしょうね。
あるお医者さんが言っておられました、「しっかり生きてきた人は、しっかり亡くなっていかれますし、ちょっと変な表現ですが、べたべた生きてきた人は、べたべたと亡くなります。
そして、周りの人 に感謝をしながら生きてきた人は、わたしたち医者やナースに感謝をしながら亡くなっていかれますし、不平不満を言いながら生きてきた人は、我々に不平不満を言いながら亡くなっていかれます。
最後の一ヶ月というのは、それまでの人生の凝縮です。そういう意味で、人は、生きてきたように死んでいくのです。」
肉体の死もわたしという人格の形成過程の体験の一つとなると、そのわたしが迎える肉体の死ですから、わたしは肉体をまとったわたしらしくしか死を迎えられないということでしょう。
でも、肉体の滅びとわたしとは別の存在ですから、肉体の滅びはわたしという人格が肉体を捨てて生まれ変わるともいえます。
だから、死は生の一部ともいえます。
人が死を恐れ、死ぬことに不安に感じるのは、死が未知の体験であり、その彼方の世界に行って帰ってきた者がいないから前もって知ることもできないからでしょう。
人にとって未知の体験は不安なものです。
だから、人は古来この死に対する不安と恐れからの救いを求めて、死にさいしても、死の後も一緒にいてくださる方を、地上の人生において確かにしておきたいと願います。
この願いが宗教とか信仰の一つの要素ということでしょう。
仏教は、阿弥陀仏と一緒に死を迎えます。キリストに結ばれて生きてきた者は、キリストが迎えに来てくださることを知っています。
キリストに属する者は死にさいして、「今日、あなたはわたしと一 緒に楽園(パラダイス)にいる」(ルカ23の43)、「・・わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28の29)と言われたイエスの言葉を共にしています。
だから死ぬときはひとりではないのです。そのことを確かにするために、わたしは昨日も今日のまた明日もイエスの言葉を読み続けるのです。
その様な生き方のまま逝きたいのです。人は生きてきたように死ぬからです。
キリスト者が肉体の死に直面してどのような死に方をするかは、その人が生前どのようにキリストと関わってきたで決まると思うのです。
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