和解の言葉
コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章19節
●19節.つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
「神はキリストによって世を御自分と和解させ」の和解とは、対立・敵対していた相手と親しい関係を回復すること、つまり、この悪魔が支配する世と神の和解(悪魔との和解ではありません。)であると同時に、神から離反している人間と神との和解です。
神から離反している人間と神との和解です。)。
それも神が御子キリストを世に遣わし一方的に世と和解されたのです。
つまり、神の一方的な赦しと恩恵による和解なのです。そうでしょう。罪を犯した者からの和解の呼びかけはあり得ません。
神と人間の場合は、エデンの園ではもともと両者は親しい関係でありましたが、悪魔の誘惑により人間は一方的に神から離反したのです。
神は人間と和解する為に御子イエスをこの悪魔が支配する世に使わされましたが、悪魔が支配する人間の手によって十字架に架けられて殺されました。
しかし、御子イエスは神の人類救済のご計画により、死から復活されて悪魔の力に勝利されました。
復活したイエス・キリストは悪魔の支配の中に神の支配のエリアを設け、現在も徐々にその支配するエリアを広げておられます。
その神の支配エリアがキリストの民の共同体であり、教会であると言うことです。
そして、やがてこの世のすべてが神の支配下になるのです。
これは神の約束ですから必ず成るのです。
神はもともとわたしたち人間をご自分と対立する相手として造られたのではありません。
御自分の愛のパートナーとしてお造りになったのです。
エデンの園では自由に生きることを許されたが、唯一善悪の判断のみは禁止されました。
ところが人は、悪魔の甘い誘惑の言葉に負けて自分で判断して生きる道を選びました。
人類は自分の創造者に背を向けたのです。
創造者である神は、人間の存在の根源です。その創造者からの離反は被造物である人間の根源的な罪です。
従って人間は神との霊的な交流がなくなり、命の源である神から何のよきものも受けることができなくなっていました。
同時に、命綱を断たれた人間は死すべき運命に定められてしまったのです。
ところが約2000年前に神の子イエスによって、「神はキリストによって世を御自分と和解させ」、その和解の言葉の告知を使徒たちに委ねて、今も世界に告げ知らせておられます。それが福音ということでしょう。
神は「わたしたちの罪の責任を問うことなく」無条件に赦し、「わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖ったから」と呼びかけておられます。
罪を犯したのは人間ですから、その罪を赦すことができるのは裏切られた神だけです。
したがって、わたしたちはいくら多くの供え物をし、善行を積み重ねても、神の許しがない限りそのことによって神と和解することはできないということです。
神が差し出してくださる和解を無条件で受ける以外に、神との和解はあり得ないし、命の源である神との霊的な交わりを回復することもできないと言うことです。
神は御子イエスにより一方的に人間の罪を許し和解の道を示されました。
それはイエスの言葉である福音を信じ、心に留める(キリストの内に留まる)こと、それだけです。
福音を受け入れて、罪が赦されれば、神の御霊、聖霊がその人に内住し、その人を根底から(神の子に)造り変えて,神と共に生きることができる永遠の命が与えられるのです。
その人生は、神を父と呼んで一切を父に委ねて生きる人生、隣人に対する無条件の愛の交わりと喜び、来世での復活への熱い希望、このような生き方をパウロは信仰と愛と希望に生きると言っています。
神との和解によりそれが現実となるのです。
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