自分の置かれた境遇に満足する
フイリピの信徒への手紙4章11節から12節
●11節.物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
●12節.貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
この聖句は、自分の置かれた境遇に満足し、何事もほどほどがよいと言っていると思います。本当にそのように思います。
「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」というのは、つまり、足るを知るということでしょう。
わたしは若い時から心がけてきたことが一つあります。それは、自分の身の程を考えて、自分らしさを忘れずに、少し上を見て生きるということです。
所詮人間は、その人らしく生きるしかできないのです。
そうすれば心は平安に満たされると思うのです。それは、きっと神様の御心に適った生き方なのでしょう。
わたしたちは生かされている限り生きるしかない。どんな人生であれ、与えられた状況を、生きるしかないのです。
自殺という方法もあると言われますが、わたしたちは簡単に自殺ができるようには造られていません。自殺は心が正常ではない状態だからできるのだと思うのです。
だから、自殺はきっと神様のみ心に沿っていないのでしょう。
このようにブログ投稿文を書いていても書き続けるのが神の御心ならば、その様にできるでしょう。
もちろん、あなたは本当にわたしを分かっていない、やめなさいと突然言われるかもしれません。
わたしは最近不安定狭心症を疑われて心臓カテーテル検査をしました。
不整脈もあり非常に不安に思っていたのですが、よく考えれば、生きる必要があれば神は生かして下さるし、この様な経験もこれから老いていくわたしにとって必要なのでしょう。
その様に考えると、怖がりのわたしも案外平安の中で検査を受けることができました。
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