自分のいのちを損したら
マルコの福音書8章36節
●36節.人が全世界をもうけても、自分のいのちを損したら、何の得になろうか。
人間の所有欲には際限がない。人間は一つの物を手に入れると、すぐ次の物が欲しくなります。
お金はお金を呼び、権力は権力を呼び、最終的には全世界を自分の物にしないと気が済まなくなる。
お金も権力も所有欲、所有欲はイコール支配欲。支配欲は罪を生み出しますが、人間の支配欲が物に向かっている限り、それは技術を生み、文明を発達させます。
しかし、人間は自分が支配できる物が多くなると、必ずその力を用いて人をも支配しようとします。そして、他者を支配しようとする人と支配される人の間の限りなき争いとなります。
そして、独裁者を生み、国家間となると戦争となります。
ところが、人間にはどうしても所有(支配)する事ができないものが一つあります。
それは自分のいのちです。人は全世界を所有しても、自分のいのちを所有[支配]する事はできないし、自分のいのちを失えば、所有は何の意味もないことになります。
それを悟った人は、今度は自分のいのちを長らえることを最後の願いにするのですが、それには、物質的なものであれ精神的なものであれ、自分が所有している物は何の役にも立たないのです。
このように、人間は自分のいのちを支持する事も、支配する事も、所有する事もできない。
それは、いのちは神様の所有であり、神様から戴いた賜物だからなのでしょう。
いのちは神様からの戴き物であるならば、自分の力では支配できないのは当たり前です。
どうしても死を逃れえないのは、この事実を教えるためであるともいえます。
聖書には、神の言葉であるイエスの言葉を信じることによってのみ死を免れると書いてあります。
神様はキリストによって全人類の罪を許し、イエスの言葉を信じるものに永遠のいのちを与えて下さる。それは信じる者に与えられる神の賜物です(ローマ書6章23節)。
聖書には、あくまでイエスの言葉を信じない者は滅びると書いてありますが、行いによって裁くとも書いてあるので、すべての生命が滅びるとは限らないとわたしは思う。
それに裁きであるならば、裁きの結果はいろいろで、すべてのいのちが裁きのうちで一番重い地獄へ行くとは限らない。
裁き主が愛と憐みの神様ならば、ほとんどの人が清めのときを経て最終的に救われるものとわたしはかってに思っています。
イエスが復活されたように、キリストに属する者は来世において、もはや朽ちる事のない霊の体を与えられます。
それがわれわれの復活だと思う。復活は神の創造のみ業の完成です。
人は全世界をもうけても、この永遠の生命を失い、また、復活できなければこの世で何をどれだけ得ても何の益があろうか。
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