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2017年3月 2日 (木)

神の子

ルカの福音書 1章35節

●35節.天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。

この聖句は、天使が聖霊によって身ごもることをマリアに予告したところです。

イエスがマリアから生まれたことは皆さんよくご存じですが、その誕生が聖霊により身ごもる、それも処女マリアからの誕生であったということは余り関心がないように思います。

処女降誕を、そんなバカなことはないと言って一笑に付する方もおられます。

この科学万能の時代にそのような馬鹿げたことを信じることができるのかという態度です。

ある意味、科学万能の時代に生きるわたしたちにそのことを信じろと言っても無理かも知れません。

それに聖書を読んでいると、イエスの処女降誕がキリスト信仰になくてはならないことかと言えばそうではないと思うのです。

事実パウロなどは、イエスの処女降誕を語らずに、福音は「キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、三日目に復活したこと」と告知し、それを信じて復活者イエス・キリストに従う者には神の霊である聖霊が与えられることを約束している、と言っているのです。

使徒の福音告知を受けて、最初のころにキリスト信仰に入った人たちは、聖霊を受けて新しい命に歩んでいましたが、イエスがどのように生まれたかにはあまり関心がなかったのではと思うのです。

イエスは聖霊の働きによって復活し、神の子キリストとして立てられました。

聖霊の働きにより弟子たちが復活されたイエスに出会いました。

その出来事を告知するのが福音ということですね。その福音を信じる者には聖霊が内住し、福音を信じる者は神の子とされるのです。

それでは、イエスの処女降誕物語は何を意味するのでしょうか。

わたしが思うに、福音を信じて復活したイエスに出会い、聖霊を受けて新しく生まれ変わった命を体験して神の子とされた者たちの共同体は当然イエスを賛美する共同体です。

だから、マリアの出産時の不思議な体験があればそれを題材にして自然とイエスを賛美する物語が生まれるのは当然です。

それほど、当時のキリスト共同体は、聖霊の働きは活発で、迫害の中にあっても平安と喜びに満たされていたと思うのです。

だから、処女降誕物語は全くの作り話とは言えないと思うのです。

それにイエスの復活を信じることができて、イエスの処女降誕が信じられないと言うのはおかしいです。

どちらも、聖霊の働きです。そういう意味で、処女降誕の信仰は復活信仰の一部とも言えます。

言えることは、処女降誕を日常体験しないからと言って、絶対にないとは言えないということです。

科学が森羅万象の出来事を解明しているのはほんの数パーセントだと聞いています。

いや、それ以前の、なぜわたしたちは今いるのか、何処から来てどこへ行くのかなど人間には自分が生きているこの世界の殆どのことは、自分のことを含めて分かっていないのが現実だと思うのです。

おそらくマリアは、イエス出生時に何か不思議な体験(それは霊的な体験ですが)が事実あったので、復活したイエスを信じる共同体で身近な者にそのことを語っているうちに、それが素材となって共同体で語り継がれるうちにマタイとルカの福音書にあるようなイエスの処女降誕物語が出来たのだと思うのです。

両福音書の処女降誕物語の内容が違うのは、伝承が引き継がれた共同体が二か所あったと言うことでしょう。

したがって、処女降誕物語は、マリアが体験した不思議な出来事をそのまま記載したのではないということです。

ユダヤ教に力があり世間が異質な考え方を受け入れないとき、イエスの言葉を信じる者がユダヤ教の中の一派であったときは、マリアはイエスを出産した時の不思議な体験を人びとに語ることなど到底できなかったと思います。

おそらくマリアは、ユダヤ教がユダヤ戦争の敗北と同時に事実上滅び、キリスト共同体がユダヤ教の一派から完全に分離して、ユダヤ教の締め付けがなくなったので、キリスト信仰が盛り上がり、復活信仰が高まる中で少しずつイエス出産時の不思議な体験を身近な者に語り始めたのではないでしょうか。

もっと早く、おそらく紀元70年(ユダヤ戦争によりイスラエルが滅びたとき)前後、ユダヤ教に力がまだ強かった時に書かれたマルコの福音書にはイエスの処女降誕物語がないのはそのためではないかと思うのです。

聖霊によるイエスの死者の中からの復活を信じるならば、聖霊による処女降誕を信じることは当然の成り行きだと思います。

今となっては、それが事実かどうかを科学的に証明することなどできないし、また、その必要もないと思うのです。
キリスト信仰は、イエスの復活の上に立っていますので、処女降誕は必要条件ではありません。

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