囲いに入っていないほかの羊
ヨハネの福音書 10章16節
●16節.わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
イエスは、「わたしが良い羊飼いである」と宣言されました。その中にこのお言葉があります。
当時の羊飼いの状況を調べてみますと、羊飼いは、昼は群れを草や水のあるところに導いて養い、夜になると村に連れ戻して囲いに入れます。
一つの村の羊は共同の囲いに入れられることが多く、朝になると門番は顔見知りの羊飼いには門を開き、羊飼いは自分の羊だけをその名を呼んで導き出します。
羊も自分の飼い主の声を聞き分けてついて行くということです。
イエスがここで「この囲い」と言っておられるのは、教会のことのように解釈されていますが、当時はまだ教会もなかったので、ユダヤ教のモーセ律法という囲いの中にいるユダヤ人のことを囲いと言っておられると思います。
イエスは、ユダヤ人の救いを拠点として全人類におよぶ救いを成し遂げようとされたのです。しかし、ユダヤ人でイエスの声を聞き分けた者は少数でした。
人類の救いはこの時から、ユダヤ人だけではなく他の民族(もちろん、ユダヤ教以外の他の宗教の人々も)を含めて、イエスの言葉を聞きわける、ご自分の群れを造ろうとされたのです。
ここではその群れを「囲い」と称されているのでしょう。
もちろん、この福音書が書かれた時代には、イエスの群れにはすでにユダヤ教徒以外の異邦人が多く含まれていたことでしょう。
ユダヤ人でイエスの声を聞き分けた者は少数でしたが、ユダヤ人以外の異邦人、ユダヤ教以外の宗教に属する民の中から、イエスの声を聞き分けてイエスの囲いの中に入って来るものが大勢出てきました。
現在のキリスト教徒のほとんどは、ユダヤ教以外の人々です。
この聖句で注目すべきことは、イエスは「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」といっておられますが、「一つの囲いになる」とは言っておられません。
そうです、クリスチャンは教会に囲われてはいないのです。群れです。
囲いではなく群れになるのですから、どの宗教の囲いの中にいてもイエスの言葉を信じてイエスという羊飼いの群れの中に入ることができるのです。
だから、キリスト教徒以外の宗教の人はその宗教の囲いの中から出てキリスト教の囲いの中に入りなさいとは言っていないのです。
どの宗教の囲いの中にあっても、イエス・キリストの声を聞き分けて従えばよいと言うことではないでしょうか。その様にしてイエスのもとに集まった群れが人類を救うことになるのだと思います。
キリスト教徒と言うのは、なにも教会と言う囲いの中にあるからキリスト教徒ではなく、イエスの言葉を信じ心に留めている人がキリスト教徒だということでしょう。
« わたしの手や足を見なさい | トップページ | 神の子 »
「心に残る聖書の言葉」カテゴリの記事
- わたしたちは待っています(2017.08.16)
- 御子はその体である教会の頭(2017.08.15)
- 死者の中から復活(2017.08.12)
- 福音は愛の言葉(2017.08.10)
- あなたがたも生きることになる(2017.08.09)
コメント