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2017年3月 2日 (木)

これはわたしの体である

マタイの福音書26章26節

●26節.「取って食べなさい。これはわたしの体である」。

イエスはご自分の命を奪おうとする者が待っているのを知りながらエルサレムに上られました。

それはご自分の死は神のご計画で、人類の罪からの救いを成就するものであることを知っておられたからです。死を覚悟のエルサレム入りです。

イエスは十字架で殺される前の日の夜、弟子たちとの最後の食事の席で、ご自分の死の意味を語られます。

イエスはパンを取って裂き、弟子たちに与えて言われた、「取って食べなさい。これはわたしの体である」。

今弟子たちが手にとって食べているパンは自分の体であると言われたのです。

パンを食べることは、イエスの体を食べることになるのです。

パンであるイエスを食べると言うことは、そのパンは消化されて体の一部になりますから、自分のために死んでくださったイエスと一つになると言うことになります。

イエスは神の言葉、神の思いがイエスと言う人間の姿になったのです。イエスは神の言葉が具現化した存在です。

パン(わたしたちが毎日食べている食物全体を指している)は人間が生きていくために誰もが毎日食べる日常の営みです。

イエスは神の言葉が具現化した存在ですから,そのイエスが発した言葉は神の言葉ですから、そのイエスの言葉を聞いたり読んだりすることを、日常的に食べる食事のパンやご飯にたとえておられるのでしょう。

毎日食べるパンやご飯のように神の言葉を日常的に、つまり、神の言葉であるイエスの言葉を聞いたり読んだりして心に留めて過ごしなさいと言っておられるのでしょう。
そうすることによって、神と人との一体化がそのことによって成就するのでしょう。

神と共に生きる、というのはそういうことを指すのだと思います。

ということは、宗教とか信仰は日常生活から離れた別の所にあるのではない。

それは毎日食事を戴くと言う営みと同じように、日常生活の中にあって、生きていくために毎日食事を戴くのと同じように、生きていくためには欠かすことができないものだということでしょう。

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