キリスト信仰概観(1)
聖書において神は、どこか遠い空で鎮座しておられるのではなく働きそのものです。
神はこの天地万物を存在させ、生命を生起させ、支えておられる働きそのものなのです。
神の働きの色々な面の一部の体験が世界中にある様々な宗教となったのだと思うのです。
日本の多神教も、日本人は自然を神秘なるものととらえますから、その自然を創造した神の働きが余りにも断片的で無数であるから、生まれたと言えます。
つまり、一つ一つの神の働きを一つの神としてとらえますから、八百万(やおよろず)の神々が生まれたのだと思います。
世界の宗教は多神教が殆どで、一神教は旧約聖書を正典とする、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教のみではないでしょうか。
一神教の神が唯一であると言う信仰は、いわば、そのような多神教の中で、つまり、無数の神の働きの中で働きの全体を統一的に理解して、その働きの全体を「神」として捉えていると言うことになります。それが聖書の神です。
モーセに啓示されたヤハウェという神の名も、「わたしはある。わたしはあるという者だ」というように動詞が繰り返されていて、神が働きそのものであることを語っています。そして、「わたし」とありますから、神は人格神として認識されているのです。
このようにイスラエルの宗教史において成立した唯一神信仰がキリスト教とイスラム教に受け継がれて、一神教世界を形成することになったと言うことでしょう。
「キリスト」というのは「救い主」という意味ですから、ブッダ(釈迦)や孔子やソクラテスというような聖人や賢者の一人を指す名前ではありません。
ユダヤ教はその方を、すなわち、人類救済の働きを地上にもたらせた方を「メシア」(そのギリシヤ語訳がキリスト)と呼んで、(イエスはキリストではないとして)その出現を将来に待ち望んでいるということでしょう。
イスラム教では、ムハンマドは最後の預言者(神の言葉を預かり伝える者)と言っていますが、預言者であってキリストではありません。
仏教では、ブッダは悟りを説く賢者ですがキリストではありません。後に救済の働きをする超越者への待望が大乗仏教を生み、アミダ仏が仏教におけるキリストの役割を果たすようになったと言うことです。
わたしは仏教とかイスラム教のことも、一般の人が持っている知識以上のことは知りませんが、その様に思っています。間違っていればご容赦ください。
キリスト教の福音は、そのキリストが一人の歴史的人物であるナザレのイエスにおいて出現したと告知しているのです。したがって、イエス・キリストという名は固有名詞ではないのです。
旧約聖書の創世記の創造物語は、現実の人間は人間の本来の在り方、本来いるべき場から転落しているという理解です。創造物語の中でそのことをアダムの堕落という神話的な形で物語っています。
人間は太古の昔からこの堕落の現実を自覚し、そこからの脱出への問いを、神話という形で表現してきたのでしょう。仏教は苦からの解脱の道を説きましたが、それも同じことを言っているのでしょう。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」(ローマ書3章23節)とパウロは言っています。
その罪ですが、ユダヤ教では、罪とは神の律法(モーセ律法)に背く諸々の行為を指しますから、罪という用語を使うときは常に複数形が用いられているそうです。
しかし、パウロが罪という用語を使うときは、複数形で用いることはなく、いつも単数形を使っているということです。
それはパウロが罪を律法(行いの規範)に対する諸々の違反行為ではなく、人間の在り方全体(神から離反している事実)を指していますから、罪の支配下に陥っていると理解すべきであるとしています。いわゆる原罪ですね。
先のパウロの言葉の中の「神の栄光」とは、神の働きを受けて聖霊によって神が与えられる良きものということでしょう。
その良きものの中の究極が、神ご自身の命である永遠の命です。その永遠の命に与れない者には死があるのみです。ちゃんと筋が通っています。
このように聖書では、神から離反していることが罪であり死ですから、わたしたちは「罪と死の律法」の下にある、とパウロは言っているのです。
罪は神から離反している状態で、永遠の命は神によってもたらされるものですから、神と離反している状態ではやがて死(肉体だけでなく霊的にも一切が消滅)が訪れるのはやむをえません。
神から離反していることを罪ですが、具体的には、わたしはこの世界は、創造された時に設けられたあらゆる法則によって成り立っていると思うのです。
罪と言うのは、その法則に違反している状態です。個々の罪は神から離反していることから派生して起こる、すなわち、いのちの法則に違反しているから起こっていると思うのです。
パウロは、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ書8章2節)と言っています。
具体的には、神はキリストであるイエスの中に働き、イエスを十字架にかけることにより、罪と罪人の贖いを成し遂げ、イエスを死者の中から復活させることによって、復活されたイエスがキリストであることを世界に公示されたのです(ローマ書1章4節)。
このことをパウロは、「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ローマ書8章3節)と言っています。
この「肉」という語は、生まれながらの人間の本性を指しています。人間は本性の弱さのために、モーセ律法が、すなわちユダヤ教がなしえなかったことを、神が成し遂げてくださった、ということでしょう。
そしてパウロは神の愛について「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき(神の背いていた時)、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ書5章6~8節)と言っています。
まさにこのキリストの自己犠牲(十字架死)こそ、神の愛(アガペー)の現れだと言っているのです。
こうして見ると、同じ宗教でもキリスト教とほかの宗教の教えが全く違うことが分かります。
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