キリスト信仰概観(2)
ここでは、聖書を読み誰でもが疑問に思うことをわたしなりに考えて書いてみたいと思います。
聖書には、病が癒される話、悪霊から人を解放する話、はては、死んだ人が生き返る話、いろいろと信じられないことが書いてあります。そして、極めつけはイエスの十字架死は全人類の罪を贖うための死だと教えます。
そして、それらの出来事は、神の人類救済の御計画の御業の一貫だと言っているのです。
ここで確認しておきたいのですが、信じるとは、それらを肯定的に読むことだと思っています。ですからこの投稿文を読まれる方は、聖書に書かれていることを(疑っても)肯定的に受け取っていただきたいのです。
頭から聖書を否定するのならば、読む必要はありません。疑いは否定ではありません。疑いを晴らすために肯定的に読むことも必要だと思うのです。
それではイエスはどのような理由で奇跡を起こされたのでしょうか。
見世物のためでしょうか、それとも気まぐれでしょうか。
もし、見世物とか気まぐれでなされたのならば、十字架に架けられて苦しまれる必要はなかったのではないでしょうか。見世物に命をかける必要はありません。
それでは、病に苦しむ人をただ憐れまれたからその様な奇跡を起こされたのでしょうか。もし、憐みゆえの奇跡でしたら、世界中の病を持つすべての人を癒されたほうが、悲しんでいる人々を喜ばせることができますので、よほど理に適っています。
イエスは神の子ですからそれができるはずです。でも、その様になさらなかった。
それはやはりそのほかに重大な(イエスが神の人類救済の御計画のためにこの世に来られたとするならば)神のご計画があったからと言えないでしょうか。
わたしたちは、病をイエスに癒されても、また病気になって治っても、わたしたちはまた病気になります。
イエスの言葉を信じて罪から救われてもまた罪を犯します。ラザロのようにたとえ死から生き返っても、その人はやがて必ず死にます。
病も罪を犯すのも死も、厳然たる事実としてすべての人に例外なくやって来ます。例外はないのです。
では、イエスが伝えた「救い」とはいったいなんでしょうか。わたしたちを何から救おうとされたのでしょうか。
わたしはイエスの御業(奇跡)は、今のこの世において、神が働いてくださっていることの「しるし」ではないかと思うのです。
祈ることによって病気が治るというのは、神の御霊、聖霊がわたしたちの体を支えていてくださることの「しるし」であり「証し」だと思うのです。
「しるし」であれば、ラザロとかヤイロの娘が生き返ったのは、実は死んでいなかったということになります。
そうでしょう。本当にわたしたちの命を創造し、支えておられる神様の御霊、聖霊がおられるとしたら、ラザロとかヤイロの娘の命はその人個人のものではなく創造主である神様のものと言うことになるからです。
また、その通りですが。
聖書は語ります。神の御霊、聖霊は、命を生み、支え、わたしたちを新しい人間に造り変え、新しい人間が住む新しい天地を創造しょうとされている。
そのために、今もイエスの福音を受け入れた者に内住し、昼も夜も休まずに働いておられると。
わたしたちが生きているこの時間と空間の世界、この今の時代、今の世、この時代の中で、全く新しい時代、新しい天地が準備されつつあるのです。
人類の歴史も宇宙の歴史も、そのことに向かって進行しているということです。
やがてわたしたちの身体も精神もその全存在も、全く新しい天地にふさわしい新しい人間へとよみがえる。これが聖書の言う復活ではないでしょうか。わたしはその様に理解しています。
新しい人類と新天新地の創造です。こういう驚くべき事態が、聖霊によって進められている。
「天地は滅んでも、わたしの言葉は滅びることがない」とイエスが言われましたが、このことを言っておられるのだと思います。
わたしたち人類に啓示されたイエスの人類救済の御業は、現在まだ進行中です。まだ終わっていません。しかし、そういう事態は必ず到来するのです。
聖霊は今もわたしたちと共に、わたしたちを通じて、人類と宇宙の救いの完成を目指して歩んでおられる。そのことを約2000年前にイエスはこの世に来られて、わたしたちに告知されました。
そのことを実現する為に、神から離反しているわたしたち一人ひとりに、今も神の御霊、聖霊が働き掛け、語り、聞かせ、信じさせ、覚らせて啓示してくださっているのです。
まさに初めから終わりまで、神による恩恵の支配です。この宇宙を造られた創造主のご計画ですから、必ず成るのです。
わたしたちはその働きかけに応えるだけで、自分からは何もできません。
それらのことをイエスはわたしたちに告知する為に来られたのです。そのイエスの告知はまさしくわたしたちにとって(信じる者にとって)福音と言えます。
だから、処女降誕から復活まで、福音書で語られるイエスの出来事が、奇跡としるしと不思議で満たされているのは当然だと言えます。わたしたちの想像の世界を超えた事態が今現実に起こっているからです。
全てはイエスの十字架のおかげです。なぜならば、その出来事があったから、神の御霊、聖霊はこの世に降り神の支配が始まったのです。
神の働きはもう止めようがないし止まらないし、必ず成るのです。
わたしたちにはただ聖霊の導かれるままに、イエスの言われた言葉を信じて心に留めてこの地上の生を歩むだけです。
このような神の素晴らしいご計画を信じてこの世を生きる方が、この世界のどうしょうもない悲惨な姿に悲観して、希望のない暗闇の中を生きるよりもよほどましだと思いませんか。
さて、神の働きはよくわかったけれども、では、どうすればわたしたちは神の意志を知ることが出来るのでしょうか、となります。
それは自己の潜在意識を聖霊に支配していただくと言うことだと思うのですが、その潜在意識とはいったい何でしょうか。
「潜在意識」という言葉には意識という言葉がついているので、意識の一種ということはすぐに理解ができます。
意識というとフロイトを思い出します。フロイトは、意識には顕在意識(意識している部分)と潜在意識(無意識)があるといいました。
聖書では、生まれたままの古い命に生きる者は、その潜在意識はサタンに支配されているという前提にあります。この古い命に生きる者に対する言葉は、キリストにあって新しい命に生きる者となります。
新しい命に生きる者とは、イエスの言葉を信じて心に留めて生きる者です。
だから、その者の潜在意識は、サタンに代わって神の御霊、聖霊が支配していると言うことになります。
潜在意識は、わたしたちの普段の行動、思考、意思決定に大きく関与し、影響を与えています。
従って、潜在意識に悪い情報が詰まっていると、当然、自分の人生にも大きな悪影響を与えることが理解できます。
それでは、潜在意識を神の御霊、聖霊が支配されているかどうかは、どうすればわかるのでしょうか。
それは、聖書の言葉に反することをしょうと思えば、神の御霊、聖霊が支配されている潜在意識であればきっと悲しまれるでしょうから、心に葛藤が生まれるのではないでしょうか。
「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(マタイの福音書12章34節)とイエスも言っておられます。
聖書はその潜在意識を神の御霊、聖霊の支配に委ねなさいと言っているのです。それが聖書の言う救いなのでしょう。
イエスは、「イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハネによる福音書/14章 23節)と言っておられます。
そのためにわたしたちがすべきことは、イエスの言葉を信じて心に留めて生きることです。
この「愛する」と言うのは、イエスの言葉(聖書の言葉)を信じて守るということでしょう。
キリスト教の伝道は、神の御霊、聖霊に潜在意識を支配された人たちの、御霊と共に歩んだ体験の告白だと思うのです。
新しい人間、新しい天地の創造、その先駆けとしてキリストの福音を受け入れた者の集まりであるキリストに属する者の集会(共同体)、あるいは、教会があると思うのです。
キリストの教会(エクレシア)はまだまだ未熟です。成長過程にあると思うのです。だから、教団とか教派がいろいろとあり、構成する信徒も玉石混合です。
新しく生まれ、消滅し、また、有機体のように大きくなり小さくなり、去っていく人がいれば入ってくる人もいる。こうしてこの世の中で苦しみ悶えながら成長して行くのでしょう。
したがって、神様が設けられたキリストの教会と言っても、救いは人間との共同作業ですから、絶対ではないのです。
聖書では、この世は約2000年前まではサタンが支配していました。
その真っ只中にイエスは降ってこられ、ご自分の支配領域を神の御霊、聖霊と人間との共同作業によって作り、広げようとされているのです。
そうして出来上がった支配領域が、キリスト教会であり信徒の集まりである共同体なのです。
まだまだこの世界のサタンの支配領域は広いのですが、一歩一歩と神の支配領域が広がり、やがてすべてが神の支配領域になります。
その時に新しい人間と新しい天地が完成するのだと思うのです。それまで我々人類は罪(神からの離反とそこから派生して起こる罪)の中で呻き苦しみ続けることになるのでしょう。
その苦しみは、忍耐することによって新しい人間、新しい天地という希望を生むのです。
この世は、永遠の命を生きるわたしたちにとって、まだ始まったばかりの小学校のようなものだと思うのです。
« キリスト信仰概観(1) | トップページ | 聖書の神 »
「キリスト教とは」カテゴリの記事
- エクレシアと制度的共同体(2017.03.02)
- キリスト信仰概観(2)(2016.02.10)
- キリスト信仰概観(1)(2016.02.09)
- キリスト教の福音(2014.03.04)
- キリスト教は教えの宗教ではない(2012.06.04)
コメント