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2016年2月 6日 (土)

イエスを待ちわびて

参考とする聖句は次の通りです。

●ルカの福音書18章1節「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

●同2節.ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。

●同3節.ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

●同4節.裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。

●同5節.しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

この箇所は、前段の「神の国が来る」(ルカの福音書17章)の流れから、また、内容的にも、神の国到来のことを扱っていると理解できるし、再臨遅延の問題を扱っているのは明らかです。

その根拠は、1節のイエスの言葉「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」です。

このイエスの言葉は、著者がイエスの言葉で、キリストの再臨が遅れていることへの共同体の失望とか落胆に対し、警告し励ましているのでしょう。

「絶えず祈らなければならない」とは、そういう状況において今共同体がなすべきことを指示したということです。

ルカは、このようにイエスがなかなか来られないという問題を大きく扱っているのは、そのことが紀元80年から90年代のキリストの民にとって、差し迫った問題であったのでしょう。

それはキリストがすぐにでも再臨されると思い、キリストの民は財産を処分して持ち寄って共同生活をしていたので、その財産も底をつき始めていたでしょうから当たり前です。

前段(17章20節から37節)の「神の国はいつ来るのか」というファリサイ派の人の問いに対しイエスは(実際にはイエスの言葉を借りて聖霊の導きの中でルカが書いた言葉)答えます。

それが、ルカの福音書17章20節、21節の「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」です。

神の国が到来する時期や「人の子」が現れる時を地上の時間の流れのなかの出来事とすること自体が不適切なことだから、キリストの再臨の「遅延」というようなことは本来問題とならないことだと言っているのでしょう。

「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」というのは、三位一体の三位格である聖霊がこの世界にあまねく降り、すでにキリストの民に内住され、働き、支配しておられますから、そういう意味で、すでに神の国は来ているということでしょうか。

そして、この段落で、キリストの再臨がなかなか実現しない問題に対処するための実際的な勧告を「やもめと裁判官」のたとえを用いて勧告します。

結論は「うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」(5節)ということでしょう。

他にはルカの福音書11章5節から8節とか11章9節がありますが、まとめると、神に祈り求めるときは、現実がどうであれ、落胆したり諦めたりしないで、神の信実だけを頼りにして、求め続ければ叶えられるということでしょう。

ここのたとえの裁判官は、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」(2節)です。

裁判官は、自分の担当の地域に貧しいやもめがいて、自分の権利を守ってくれるように訴えたとき、直ちにそれに応じて裁判をしなければならない立場ですが、この裁判官は「しばらくの間は取り合おうとしなかった」(4節)のです。

それは、こんな貧しいやもめの裁判をしても、彼女から賄賂や報酬など期待できそうにないと考えたからでしょう。

裁判官は、弱い人たち、とくにその代表格であるやもめの涙を無視する非情な裁判官でした。

やもめが「ひっきりなしにやって来て」、自分を煩わせ、ついには自分をひどい状態に陥れることになりかねないと思い、彼女のためになる裁判をしてやろうと決心します。

裁判官は正義のためではなく、貧しい者の権利の擁護のためではなく、まったく自分の保身のためだけを考えて行動するのです。

そこでイエスは、その様な非情な裁判官でさえ、昼も夜も叫び求めれば(言いぐさはどうであれ)取り上げてくれるのだから、「まして(義なる裁判官である)神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(ルカの福音書18章7節)と、ルカはイエスの例え話の意味を明らかにします。

ということは、生前イエスが語られたたとえ話を用いて、ルカがルカの時代の状況、すなわち、再臨遅延のために気落ちしている共同体の信徒たちに、御霊に導かれてその意味を明らかにしたということでしょう。

明らかにキリストの再臨が遅れている状況に「気落ちしている」共同体に向けて語られています。

その言葉の背景は、イエスの時代ではなく、ルカの時代の背景を反映しているのでしょう。

なお、「選ばれた人たちのために裁き」というのは、やもめは裁判官に「相手を裁いて、わたしを守ってください」(18章3節)と訴えたのですが、それは、「わたしの正しさを証明して、わたしの権利を擁護してください」と求めていることと同じなので、そのことを言っているのでしょう。

だから、18章7節の「選ばれた人たち」の叫びは自分たちの権利擁護の叫びなのです。

それでは、18章6節・8節の「主は言われた。・・言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」とはどういうことでしょうか。

「主は言われた。」ですから、ここは共同体が主と仰ぐ復活者したキリストの言葉として書いているのです。

「主は言われた。」と前書きしているのですから、後の言葉は重要な言葉なのでしょう。

「裁いてくださる。」は、(裁判をして)正しさを証明し、自分たちの権利を擁護してくださる、ということでしょう。

そして、その日は「速やか」にくるということですが、その日は人間の時ではなく神の時で、神は速やかに裁きを行おうとしておられるのだから、人間の思いでは遅いと思っても、気落ちすることなく、その日の到来を信じて絶えず祈る必要があるということでしょう。

それでは「・・しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」ですが、この「信仰」は、人の子(キリスト)再臨の信仰のことだと思います。


「人の子」が来て、自分の民の権利を擁護するとき、その「人の子」を待ち望む信仰の民がいなければ、その到来は無意味だといっているのでしょう。

だからそのようなことにならないように、気を落とさずに絶えず祈らなければならない、と忠告しているのでしょう。

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