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2016年2月14日 (日)

聖書の神

世界の現状を見るとき、人類が何か大きな誤りを犯したのではないかと思えてならないのです。本当に神はこのような現状を、良し、とされているのだろうか。

積極的にこの人類の悲惨な状態を造ろうとされていなくても、現状を許しておられるならば容認されているということですから、その様に受けとっても間違いではないと思います。

聖書は、神はどのような出来事も、最終的にはわたしたち被造物にとって益となるようにしてくださると書いていますので、わたしは信じているのですが、あまりにも現状がひどいものですから、楽観主義のわたしでも分からなくなることがあります。

神を知りたければ、神が造られたものを見ればよい、というのは真実だと思います。
それでは、被造物から神を見てみたいと思います。

まず、神が作ったこの宇宙です。
宇宙は美しい。この宇宙を造った神は偉大な芸術家です。神の素晴らしい感性を知ることができます。

しかし、自然災害の恐ろしさを見ると、神は無慈悲です。宇宙は美しいけれども大変危険で恐ろしいところです。

美しいといえば、この宇宙の微視的なあるいは巨視的な現象を支配する法則を研究する物理学ですが、物理学によれば、この宇宙が一定の法則で成り立っていると言うのです。

驚嘆すべきことです。その法則は、まさに何か知的存在によって造られなければ理解できないものだということです。

もう一つは、神が我々の心に植えつけられた道徳的法則です。CS・ルイスの言葉を参考にしました。

道徳的法則を良心と言い換えてもよいのですが、神はわれわれに道徳的法則という正邪の感覚を授けられました。

ご存知の通り、良心に従って生きようと人はしますが、完全に従うことのできた人は一人もいないのも現実です。

これは内側における唯一の強力な証拠です。道徳は特定の人しか持たないものであれば、証拠とは言えないのですが、すべての人が同じ道徳的法則を持っているがゆえに、だれもが自分のうちに創造者の存在を認識できる強力な証拠と言えます。

この二番目の道徳的法則から知りえることは、この被造物の世界の背後に、宇宙の万物を造られた創造者である神の強い意志を見ることができます。

それは、被造物であるわれわれが、正しい行為と言われるフエアプレー、非利己的、勇気、信義、正直、誠実などの法則によって生きることを望み、それに反する行為によって生きることを望まないという強い意志です。

したがって、これを見る限り神は善であると言えます。

道徳的法則は、常にわたしたちの思いをチエックし、なそうとすることが法則に沿っていなければ、罪悪感で攻め、悔い改めを求め、正しい方向に向くように要求します。

このような言葉があります。「善のために善は行えるが、悪のために悪を行うことはできない。」

親切が正しいからという理由で親切な行為をすることができるが、残酷が間違ったことだからという理由で残酷な行為はできないのです。

それでも残酷なことをするのは、残酷なことをすることがその人にとって快楽であるとか、何らかの利益を与えるからではないでしょうか。

神は人間という自由意志をもったものを創造しました。自由意志をもてば自分の意志で神から離反することもできるし、神の意志に沿って生きることもできる。

すなわち、人間は善を行うことも悪を行うことも自由に選べるということです。

ということは、悪の存在(不条理極まりない人類の悲惨な現状)を可能ならしめるのは自由意志であるといえます。

ただし、神は道徳的法則に沿って生きるように強烈な意志を示されているのも事実です。

ではなぜ神は人間に自由意志を与えられたのでしょうか。それも自由意志を与えておいてわざわざこの悪魔が支配する地上に(ある意味、人間が悪の誘惑に負けてしまうことを承知で)置かれたのです。

一つ言えることは、自由意志は悪を生みますが、それ以上に愛や善や喜びをももたらせます。人間は、自由意思があるから人間なので、自由意思がなければただの操り人形とも言えます。

神は自動人形の世界を望まれていないのです。弊害があっても神は自由意志を持った人間を望んで創造されたのです。

ということは、神は人間が悪魔の支配するこの地上で、悪と善の狭間に生きることによって、そこから、自由であることの幸福、(悪があるゆえに)愛と喜びを知る幸福、人間が本当の愛や善を学び、造られた喜びを自らの意志で知ることを求めておられるのではないでしょうか。

それは神と人間の関係にも言えることで、親は子供を愛するように、創造者は被造物が自分の存在を知る、すなわち、愛してくれることを望むが、それが強制であれば本当の愛ではないことも知っておられるので、神は決して強制的に自分を知らしめようとはされないのでしょう。

人間の親が子供の自立を求め、また、愛するがゆえに助けを求めてきたら何があっても助けるように、神は、人間が助けを求めてくるのを待っておられるともいえないでしょうか。

その中から神と人間の愛が育まれることを期待しておられるのではないでしょうか。この世界の悲惨な状態は、自由意志を人間に与えたがために払う代償といえます。

その様な代償を払うことによってのみ、真の神への愛が生まれるのでしょう。

人間が自由意志で神を選び、自らの意志で神を愛することによって得られるのではないでしょう。神は人間にこの地上でそのような人生を送ることを求めておられるのでしょう。

約2000年前にナザレのイエスによって、人類に善い夢を送られました。

それは、死んで生き返り、その死によって、人間に新しい生命(永遠の命)を与えるという夢です。いや、希望をです。

最初神は、ある特別の民族を選び、数世紀を費やして、ご自分がどういう神であるかを、すなわち、神は唯一で、正しいことに関心を持つ神であることを、選んだ彼らに徹底的に叩き込みました。

それがイスラエルの民です。旧約聖書はその叩き込みの過程であるといえます。

神はイスラエルの民を用いて人類救済の御計画を立てられましたが、その御計画が失敗に終わったと思われる時、ユダヤ人の中から突然ひとりの男が現れ、まるで自分が神である、あるいは、神と一体であるかのように語りました。

また、彼は自分には人の罪を赦す権威があると主張し、自分は永遠の昔から存在していると言い、また世の終わりに再びやってきて世界を裁くとも言いました。

そのイエスという男は、自分が犯した罪でもないのに、人が神に犯した罪(その裁きは死)を許し、神と共に住めるようにしょう、そのために聖霊を送ろうと言ったのです。

それも当事者である人間になんの相談もなく一方的にです。

イエスは、神は義であるがゆえに生前の行いで、公平に裁くとも言われています。

その様なことを言ったイエスは、正直、神か気がくるっているかどちらかだといえます。二者択一です。

悔い改めは神のもとに戻ること。隣人を愛するとは、自分を愛するように他人を愛すること。敵を愛せよとは、敵を愛するとは敵を良いやつだとか好きになれといているのではなく、罪を憎んで人を憎まないこと。

聖書は殺すなかれというが、その「殺す」は謀殺(憎しみを持った計画的殺人)のことをいう。したがって、われわれは殺人を犯すこともやむを得ないこともあるが、相手を憎んではならない(憎み殺意をもつ)。

憎しみが何度も重なると憎むことに喜びを感じるようになるので、決してそのようになってはいけない。罰しても良いがそのことに喜びを感じてはならない。

なぜならば、その様なことが常態になると、人間は本性的に邪悪な存在になり、悔い改めの機会さえ奪われ、神のもとに帰れなくなるからです。

これが、わたしたち人間が最も恐れなければならないことだと思います。悪を悪と、罪を罪と思わなくなれば終わりです。

聖書の神はいろいろな働きをされます。いや、神はある特定の存在ではなく、働きそのものを神と言っていると思うのです。

そして、聖書の神は、言葉の神です。言葉に思いを込めて伝える神です。
そのことを、テサロニケの信徒への手紙2章13節は次のように語っています。

「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。

なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」

神は働きそのもので、その働きは、あらゆる存在を存在させ、あらゆる生命を生かしている生命の働きだと思います。そして、その働きの担い手は「聖霊」です。

その働きの一部として、約2000年前にナザレのイエスという男をキリストとしてたて、人間救済の働きを成し遂げ、その救いの働きが昨日も明日も明後日も休みなく続いているのです。

その働きは、おそらくすべての人が神の愛の恩恵を受け、救われるまでだとわたしは思うのです。

その働きの内容は憐みと恩恵による、「わたしはあなたを愛している」と語りかける働きです。神とわたしたちはその呼びかけで関わりあう関係ですから、人格的な関係といえます。

このように、神は人間には人格として現れ、人間は神を人格としてとらえます。
そして、その人格関係を成り立たせるのは、言葉です。

このように、神と人間の関係は、創造から救いの完成に至るまですべて言葉です。
その神は、キリストにおいて人類救済の働きを成し遂げられました。

そのキリストを告知する福音の言葉によって、人間に語りかけ、信じる者の中に(御霊によって)働いて人を救われるのです。

人間の歴史の中で進められる人類救済のための神の働きは、さきがけとして、福音を信じてキリストにおける救済にあずかったキリストの民によってなされ、

それは、モーセによって与えられた契約を、福音を準備する契約として「古い契約」(旧約聖書)と呼び、キリストにおいて成就した神と人との新しい関わりを「新しい契約」(新約聖書)と呼んでいます。

そして、その福音は、約2000年前にこの地上に生まれたナザレのイエスというひとりの歴史的人物においてキリスト(救い主)が出現したということを告知します。

そのナザレのイエスは、神を父と呼び、自分は父から遣わされた者で、父から聞いた言葉を語り、父がなさろうとしていることをなし、父なる神とは、言葉を共有することで一体だといわれました。

このような神を認識するために生まれたのが、父なる神、子なるイエス、聖霊の三位一体の神の考え方でしょう。

三位一体の神は、同じ神の三つの現れの相であって、神は三位であるけれども唯一の神として一体だとする理解です。

この理解は、神が働く神という思想から生まれたものでしょう。そう、その働きにおいて三位なのです。

すなわち、いっさいを存在させる根底の働きを父なる神、キリストにおいてなされる人類救済の働きを子なる神、人間の中で実際に働いておられるのが聖霊なる神と理解できるのではないでしょうか。

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