イエスの兄弟ヤコブ
イエスには兄弟として「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン」(マルコ6章3節)があり、イエスは最初の子でヤコブやその後で生まれた兄弟はイエスの弟ということになります。
ヨセフとマリアは、イエス誕生後は普通の夫婦として、数人の息子と娘を産んだということです。
なお、父親であるヨセフは、イエスが公に活動を開始された時には、すでに亡くなっていたと考えられています。
というのは、福音書に周りの人がイエスのことを父親の名でなく母親の名「マリアの息子」(マルコの福音書6章3節)と呼んでいる個所があるからです。
ヤコブはイエスと同様、父親から家業である大工の技術を教えられたでしょうが、ヨセフは家業の技術だけでなく、忠実なユダヤ教徒として息子たちに律法(聖書)を熱心に教えたのでしょう。
彼は後に律法を厳格に守る人物として「義人ヤコブ」と呼ばれるようになります。
イエスの最後のエルサレム上り(過ぎ越し祭)のときに、母マリアとヤコブをはじめ兄弟たちもイエスと一緒にエルサレムに上っています。
忠実なユダヤ教徒として過越祭に参加するためであるのか、イエスの働きに協力するために上ったのかは不明です。
イエスは捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑の判決を受けて処刑されます。
目の前で起こったイエスの十字架上の刑死は、母や兄弟たち家族にとって衝撃的な出来事であったはずです。犯罪人の家族として、世間の厳しい目もあったでしょう。
イエスの兄弟ヤコブは、復活のイエスに出会って回心したと言われています。それは、次のパウロの言葉が証言しています。
「ケファに現れ、その後十二人に現れました。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」(コリントの信徒への手紙一15章5節から8節)。
イエスを神がイスラエルに約束されたメシアであるとする新しい信仰運動は、当初はユダヤ教団内の運動として進展していきます。
ユダヤ人キリスト信徒の共同体では、アラム語を用いるパレスチナ・ユダヤ人の共同体と、ギリシア語を用いるヘレニスト・ユダヤ人の共同体に分かれていたようです(使徒言行録6章)。
ギリシア語を用いるヘレニスト・ユダヤ人の信徒たちは、ステファノの殉教のときのユダヤ教徒による迫害によってエルサレムから追われ各地に散ります。
この騒動の原因は、ヘレニスト・ユダヤ人がユダヤ教の神殿儀式と律法順守をおろそかにしたことによって起こった出来事だと思います。ステファノはその騒動の代表的な存在であったのでしょう。
エルサレムにはヘレニスト・ユダヤ人が去ったあと、アラム語を用いるパレスチナ・ユダヤ人信徒の共同体が残りましたが、当初この共同体を指導したのは、ペトロを筆頭者とする使徒たちでした。
彼らは生前のイエスと寝食を共にし、その教えを受けた者たちです。
そして、復活されたイエスに出会い、復活者イエスから世界にイエスの教えを伝えるように派遣された者たちですから、新しく生まれた信仰共同体の指導者となったのは当然でしょう。
やがて、使徒たちはエルサレム共同体の指導者でありましたが、宣教のために各地に出かけることが多くなり、留守になることが多くなります。
使徒言行録を読んでいると、ゼベダイの子ヤコブは迫害で殺され、ペトロなどは投獄され、脱獄したとありますから、おそらくエルサレムにはおれなくなったと思います。
他の使徒も、このペトロの事件以後は使徒言行録にほとんど現れません。
この事件が起こったのは、紀元42年か43年ということです。十字架から十年ほど経たころです。
こうして、エルサレム共同体の指導は、使徒たちとは別に、長老会議が形成され、その長老会議にゆだねるようになったのでしょう。
復活したイエスに出会い信仰を持ったイエスの兄弟ヤコブがエルサレム共同体に加わったとき、イエスの兄弟という血縁上のつながりと、すでに周囲のユダヤ人から「義人ヤコブ」として尊敬されていたという事情から、比較的早い時期(パウロ回心後3年後にはすでに尊敬されていた)に彼がエルサレムの共同体の長老の中でも代表する存在になっていたと推察されています(ガラテヤ1章18節参照)。
人間的に考えれば、ユダヤ人社会から義人ヤコブとして人気があったイエスの兄弟ヤコブをエルサレム共同体の指導者として立てたのは、ユダヤ人社会からの迫害の矛先をかわすのに都合がよかったのかもしれません。
使徒言行録によれば、ヤコブは48年の「エルサレム会議」では、議長として決定を下しています(使徒言行録15章13節から21節)。会議にいたペトロもパウロもヤコブの権威に服しています。
また、57年にパウロが献金を携えてエルサレムを訪問しましたが、その際にもヤコブが会談を取り仕切っています(使徒言行録21章17節から26節)。
40年代から50年代のエルサレムは、宗教的民族主義が盛んで、ローマ人の支配下にあって、本来のイスラエルを回復しようとする運動が、律法遵守(律法への熱心)という形でファリサイ派やエッセネ派を中心に盛んであったようです。
先に書いたステファノ事件もその一つの現れでしょう。
解説では、ヤコブの義人ぶりとして、三世紀の歴史家にして聖書注釈家であるエウセビオスの著書「教会史第二巻23・4から7」が引用されていました。
その内容を引用すると、「教会の監督権は使徒とともに主の兄弟ヤコブに譲渡された。ヤコブは主の時代から今日まで誰もが義の人と呼ぶ人物である。他にも多くのヤコブがいるが、彼だけが生まれつき聖なる者である。
ぶどう酒や酒をいっさい口にせず、動物の肉も食べない。頭に剃刀を当てることも、香油を体に塗ることも、沐浴もしない。彼だけは聖所に入ることができる。そのため、彼が身に着けているのは、毛織物ではなく麻布である。
常に一人で聖所に入り、跪いて人々のために神に赦しを乞う。
長い時間祈るので、その両膝は駱駝の膝のように堅くなっている。この上ない敬虔さのゆえに、彼は義人、あるいは砦(擁護者)と呼ばれている。彼は預言者の言葉通りの人物である」です。
パウロの異邦人の「無割礼の福音」に対し、異邦人信徒も割礼を受けてモーセ律法を順守しなければならない、
すなわちユダヤ教徒にならなければならないと主張して、パウロの伝道を妨害したユダヤ人信徒の勢力がありました。
その問題は、ガラテヤ書2章、使徒言行録15章の「エルサレムの使徒会議」で議論されています。
このエルサレム会議の議長が「主の兄弟ヤコブ」です。
もともとユダヤ教ファリサイ派であった信徒から、パウロの無割礼の福音に激しく反対して、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」(使徒言行録15章5節)と主張しました。
それに対してペトロがコルネリオの場合の体験(使徒言行録10章)からパウロの立場を擁護しました。パウロとバルナバは、事実を通して神が無割礼のまま異邦人を受け入れておられる事実を報告しました。
最後にヤコブが立ち上がって、「わたしはこう判断します」(使徒言行録15章19節)と言って、裁決を下します。
ヤコブは異邦人に割礼を求めないで、パウロとバルナバが主張し、ペトロが擁護したように、異邦人で御名を信じた者には割礼は必要でないと裁決しました。
反面、死んでもモーセ律法は守らなければならないとするユダヤ人の立場をも認め、異邦人信徒に最小限の守るべきことを定めています(使徒言行録15章19節から20節)。
その様なヤコブの苦労があったから、パウロも危険を冒して、エルサレム会議で約束した「聖徒たちへの献金」を取りまとめて携えてきたのでしょう。
使徒言行録21章17節から26節には、パウロがエルサレムに上ってきたとき、ヤコブは律法厳格派のユダヤ人長老たちがパウロを受け入れることができるように苦心しています。
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>マリアの息子
とは 私生児だからです。
言い方を変えれば トマスの福音書を見れば理解できることです。
イエス様は幼少期に 何人か怨むことで殺しています。
友達や 先生 それぐらい霊力が強かったわけです。
マリアの悲しむ姿を見れば 心が痛みますし 母の笑顔を見るために子供は生きているものです。
投稿: 森 一郎 | 2020年5月15日 (金) 09時29分