聖書の神とユダヤ教の誕生
旧約聖書に記されているユダヤ教は、自分たちのメシア到来を待ち望み、ひたすら、その希望に集中して現在まで生き残ってきました。
それは他の宗教には見られないユダヤ教独特のものです。
他の宗教では、生きとし生きるものは、死と生を繰り返すという時の流れ(歴史)のなかで、圧倒的な力を持つ自然との対話という体験から生まれた宗教といえないでしょうか。
その神々は、宇宙に内在する神であり、時の流れの中で、繰り返す歴史の中で生まれ、支配する神として認識されるのは当然です。
それに対してユダヤ教では、神との対話という歴史の中で生まれた宗教です。
この宇宙は創造されたものとして、初めがあり、終わりがあるのです。ですから、神は天地を創造し、歴史を支配し、完成させる存在なのです。それが神の御計画で、神の言葉によってなされるのです。
天地万物は神の御計画によって創造で始まり、終わりに神の審判によって滅ぶべきものは滅び、救われるものは神のもとに招かれ、神によって完成されるのです。
このような神は、最初イスラエルの預言者(神の言葉を預かる人々)たちによって生まれました。
とくに、バビロン捕囚の前後に多くの預言者が輩出し、預言者は神の言葉を受けて、契約に背くイスラエルの背信のゆえに、イスラエルは神の裁きを受けて滅びるという厳しい将来を語りましたが、 一方、神の愛ゆえに栄光の未来があることも神の約束として語りました。
そのようなイスラエルの希望を語った預言者の代表は、やはり捕囚期の無名の預言者「第二イザヤ」でしょう。
「第二イザヤ」は、捕囚になったイスラエルが解放される時を告知し、終わりの日における宇宙の完成までを語ります。
天地を創造された神は、天地万物を完成させる神でもあります。神はこの預言者を通して「イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。
わたしをおいて神はない。」(イザヤ書44章6節)と宣言されます。このように、唯一の神は天地の創造者であり完成者としてご自身を告知されました。
神の裁きによるイスラエルの滅びという現実の中で、捕囚後イスラエルは悲惨な体験を思い国家を再建する中で独特の宗教、ユダヤ教を生みます。
ユダヤ教は、イスラエルの預言者たちの信仰を継承し、その後の歴史の中で二つの方向に展開します。それは律法主義と黙示思想です。
ユダヤ教は、預言者が与った神の言葉に対し、人間がどのように応答するかという性格の宗教ですから、アブラハムやモーセ以来、旧約聖書に登場するイスラエルの歴史を形成した主な人物はみな、広い意味で預言者と言えます。
人間に語り掛けられたその神の言葉の性格は、「約束」の言葉です。
まず、神はこれからなそうとされていることを予告されます。その上で、約束を受ける人間の側に、当然信じることを含めて、約束を受けるにふさわしい在り方を求められます。それが戒め(律法)です。
この約束と戒めの言葉によって成り立つ神と人間の関係が「契約」ということでしょう。
従って、イスラエルの歴史(旧約聖書の物語)は神の約束とその約束の成就の歴史です。
国が亡びる、すなわち、バビロン捕囚という苦難の中で生まれた預言者たちは、声を聴いたのか幻を見たのか知りませんが、啓示を受けて、世の「終わりの日」のイスラエルの救済を語りました。
捕囚から解放されたイスラエルは、以前の神に対する背信を悔い改め、今度は神の戒め(律法)を忠実に守ろうとします。
しかし、律法主義は、異教の権力の支配下で抑圧され、律法を守ろうとする「敬虔な者たち」は地上の現実に絶望して、この世を超えた「来るべき世」に希望を託すようになります。
神は終わりの日に、神の民を苦しめる地上の権力を滅ぼし、神の民が栄光と支配権を受ける新しい世を到来させてくださるという、終末的な傾向が強くなるのです。
そのような終末的な希望を決定的に表現したのが 「ダニエル書」ということでしょう。
さて、話は変わりますが、ユダヤ教の神は唯一な存在です。
キリストの唯一神信仰と終末待望は、ユダヤ教が預言者たちから受け継いだ遺産です。
キリストの使徒たちがキリストの出来事を神の人類救済の御計画として宣べ伝えているのですが、その根底にはユダヤ教に唯一神信仰と終末待望があるのです。
パウロは、そのことをユダヤ人相手にキリストの福音を語るのに説明は要しませんが、ユダヤ人以外の民族に福音を語るときには、この二つの前提をまず明らかにして、その中でキリストの出来事の意義を語ったはずです。
パウロは、その信仰を前提として、再臨を前にした生き方を説き、その信仰内容の正しい理解の仕方を教えようとしました。
キリストの福音は、創造者にして終末の審判者・完成者である唯一の神を前提にしなければ、成り立ちません。
キリストの出来事は、その神の救いの働きとして、捉えることによって、初めて意味をもつのです。
パウロは「ヘブライ人の 中のヘブライ人」として、この唯一神というユダヤ教の遺産を受け継ぎ、それをキリストによって完成されたものとして異邦人に伝えたのです。
キリスト に結ばれて生きるならば、この唯一の神への信仰(救い)は、聖霊によってもたらされます。
もはや、律法の業を行うことによってこの信仰(救いを)を授かろうとするユダヤ教は必要でなくなったのです。
キリストの福音はイスラエルの預言者たちの遺産を完成、成就するものとして宣べ伝えられています(ローマ書1章2節)。
ユダヤ教も預言者たちの遺産を継承するものですが、ユダヤ教ではあくまで律法を行うことによってその約束に与るとするのです。
それに対して、キリストの福音は律法の行為とは関係なく、過去の罪を悔い改めて、キリストの福音を信じることによって、恵みにより救われるのです。
律法遵守を生命線とするユダヤ教からすれば、このような律法無視は許されることではないので、パウロもユダヤ教指導層に命を狙われることになるのです。
福音がユダヤ人の枠を超えて異邦人に宣べ伝えられ、キリストが諸国民の救い主として告知されるようになったとき、このユダヤ教律法の問題が最大の論争点となりました。
パウロはこのように言っています。「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するの です」と言うことができるのです(ロ-マ書3章31節)。
キリストの十字架による贖いも、死者の復活の希望も、このような創造者にして終末の完成者である唯一の生ける神キリストとの関わりにおいてはじめて意味をもつものと思います。
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