忍耐について
マルコの福音書13章13節
●13節.また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
キリストを信じたら耐え忍ぶことを求めます。
耐え忍ぶとは、自分の思いに反する外からの圧力に対して、それを自分の力ではねつけて自分の思いを実現しようするのでなく、また、その圧力に屈して自分を変えてしまうのでもなく、その圧力によって生じる苦しみを自分に引き受けて、問題が解決する時が来ることを待つ態度といえます。
こういう受け身の生き方を「弱者の倫理」という方もおられますが、聖書では、弱い時こそ強い、弱いと見える信仰者の忍耐こそ、神の強さの現れなのだと言っているのです。
なぜ強いかと言いますと、信仰者が耐え忍ぶことができるのは、そこに神の御霊の働きの結果としての、信仰と希望と愛の中を歩む人生があるからだと思います。
キリスト者は迫害されるほどはびこると言われます。ローマ帝国に支配下で、キリスト者は激しい迫害を受けましたが、迫害を受けながら新しい信徒が激しく増加していたということです。
そして、キリスト者がローマ市民の半数を超えてしまった。
そういう事実があったから、キリスト教はローマ帝国の国教となり、全世界に広がり、今があるわけです。
希望は来世での復活の希望で、神の約束です。信仰は神の約束に対する信頼です。将来の約束への信頼、すなわち信仰は必然的に希望ということになります。
そして、この約束は、イエスの十字架による贖罪を通して与えられる聖霊によって、信じる者に保証されます。
希望は見えないものを信じるから希望であり、現実に見ることができるものは希望にはならない。
また、人間の力で実現できるものは、神の約束ではないし、神の約束ならば人間の力ではどうにもならないのだから、忍耐が必要なのでしょう。
「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(ローマの信徒への手紙8章25節)とあるとおりです。
イエスの言葉を信じる者は聖霊を賜るのですが、その聖霊は全人類の罪を贖うために十字架にかかるという大いなる神の愛を示された方イエスの御霊とも言われていますから、わたしたちの内で信仰を支え愛の働きを具体化するように働かれるのですね。
イエスは敵を愛しなさいとか、迫害する者のために祈りなさいと教えられました。
敵を愛するといっても、敵を決して好きになれとは言っておられません。
嫌いならば嫌いのままで良いから相手が自分にとって不利益になる場合でも、在るがまま受け入れ、慈しみ、祝福し、祈りなさいと言われているのでしょう。
ですから、このような愛は当然耐え忍ぶことを求めています。
愛は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(コリント信徒への手紙第一13章7節)とあるとおりです。
きびしい迫害に直面していた初代のキリスト共同体には、このような形の忍耐が求められたのでしょう。新約聖書にはこのような迫害の下での忍耐を励ます言葉が多くあります。
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