愛は忍耐強い、愛は情け深い
コリント信徒への手紙第一13章4節から7節
●4節.愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
●5節.礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
●6節.不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
●7節.すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は行いが伴うと思います。
どういう行いかと言うと、まず、相手が自分に不利益なことをしても寛容であること、つまり、許すこと。
その許しも、マタイの福音書18章21節に「主よ。兄弟がわたしに対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」。イエスは答えられました。「七度まで、とはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」とあります。
七は完全数です。七の七十倍は無限ですから、どこまでも赦しなさいということです。
神様の目から見れば、許す回数ではなく本当に許しているかどうかの質が問われるのでしょう。
そして、妬まずですから、わたしたちが人を妬む時とは、同じ望みとか目標を持っている相手に先を越された時などだと思いますが、それでも神様はその人を愛せといわれる。
その人が自分にはできないことを成し遂げたのは、神様の祝福であるから、なぜ自分にはできないのだろうと思っても、神様は決してえこひいきはなさらないので、神様を信じているならばその人を妬まず共に喜べる心を持ちなさいと言われているのでしょう。
しかし、現実を生きるわたしたちは、妬み心を持つなと言われてもとてもできそうではないと言いたいのですが、神様はわたしを愛すればそれができると言われる。
「愛は自慢せず、高ぶらない」ですが、わたしたちは自分に対する人の評価に一喜一憂して、心はいつも動揺しています。
わたしたちが高慢になっているときは、相手の意見を聞こうとはせず、自分のしていること、自分の言っていることを無理に押しつけようとします。
何の根拠もないのに、自分は正しくて、相手が間違っていると決めつけるのです。
けれども、愛は人を謙虚にさせ、自分を高めるのではなく相手を高めます。つまり、愛は自己満足の否定の上に立っていると言えます。
「礼を失せず」ですが、これは他者を無視するとか他者に配慮しないことを否定しているのですから、そのように礼を失する態度は、自分の利益のみを求めるからうまれると言えます。
この自己満足の否定の中には、他人のために、自分に当然あるとされている権利さえも否定することも含まれています。神の愛は自己犠牲を求め、礼儀に反することをしないのです。
「自分の利益を求めず」ですが、これは、自分の利益になるやり方を主張することを否定しているのです。
神さまのやり方でもなく、他人のやり方でもなく、自分自身を主張し、それを押し通そうとすることを否定しているのです。
自分の利益を求めることは、本性的にとても難しいのですが、隣人を自分のように愛する愛があればそれはできると言われているのです。愛は与えることですからね。
「いらだたず」ですが、嫌なことをされたとき、わたしたちは怒りをその人にあらわにすることがありますが、それは愛ではないのですね。愛は寛容を求めるのです。
お互い弱い者同士です。愛し支えあわなければ平和は保てないということでしょう。
「恨みを抱かない」ですが、相手の自分に対するどのような言動でも、悪いようにはとらない。相手の言っていることにいちいち疑心暗鬼にならないということでしょう。
相手の心を探るようなことをせず、どのような相手でも、穏やかに優しく接していくことが愛なのでしょう。
恨みを抱くほどの言動の背後には、その人の弱さがあると思うのです。人の弱さを知っていれば、愛の心を持ってその人に対応できるのではないでしょうか。
「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」ですが、不義を喜ばずとは、わたしたちは、自分が快く思わない人が不幸な目にあったとき、心ひそかに喜ぶものですが、それを喜ばないということでしょう。
真実を喜ぶとは、その人のことを考えて、祈り、助けようとする態度だと思います。
「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」ですが、すべてを忍びですから、我慢しろということですね。
我慢しろとは、自分にとって不利益なことをされても我慢することです。
すべてを信じるとは、分からないところがあっても色々と詮索しないで、いずれ明確になることを信じることですから、これは神様の摂理を信じることにつながるのでしょう。
また、「すべてを望み」とは、その人が神に立ち返ること、あるいは最善の状態になることを望むということでしょう。
そして、すべてを耐え忍びます、とパウロは言っています。
無理をすれば人間関係が壊れる。だから、相手が自然に理解し納得するまで忍耐と希望を持って祈りなさい、ということでしょう。
こうして見ると、愛は忍耐であり、与えることだと思います。
どんな人で、つまりどんな境遇にいる人でも他人に与えることができる、と聖書は教えています。
そして、与えることができれば、与える人自身も他人のために生きると言う人間の本質を維持し、そのことによって、幸福を味わうことができるのです。
幸福を味わうことができるのは、その行為が神の御心に沿っているからと言えます。
作家の三浦綾子さんがこのような言葉を残しておられます。
「一生を終えてのちに残るのは 、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」
神は他人のために与えるという行為には、心が喜ぶというおまけまでつきます。
これはそういう与える行為をした人にしか分からない。
与える行為に快感を覚えるのは、その行為が創造の摂理に、神の御心に沿っているからと言えます。
受けることしか知らないと、その人の人間としての本質の健康が破壊されます。
それは、人間は人との関係において授受の関係にあるからだと思います。
そこには互いに愛し合う愛が必要なのですね。
このようなことを書いた本がありました。
自分の精神の老化を量るのには、どれくらいの頻度で「・・・してくれない」という言葉を発するか、であるということです。
政治家が、介護士が、親が、兄弟が、娘や息子が・・してくれない、を連発する。
自分の思うようにならないのは、すべて他人のせいにする。
得てしてそういう人は、与えることを知らず、受けることだけ考えている人です。
そこには他者を愛する愛がないから平安もない。
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