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2014年9月10日 (水)

人生は単純ではない

コヘレトの手紙7章15節から16節

●15節.この空しい人生の日々に/わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり/悪人がその悪のゆえに長らえることもある。

●16節.善人すぎるな、賢すぎるな/どうして滅びてよかろう。

この聖句は、人生は決して単純ではないことを教えています。

人は賢くもあり愚かでもある。義であると同時に不義な存在でもある。

だから、人生の答えなんて、そんなに簡単に出るものでもない。

頭がよいから素晴らしい人生を送れるとは限らないように、頭が悪いからロクな人生を送るとは限らない。

ようするに頭が良いのも、強健な体に生まれたのも、美人に生まれたのも、歌がうまいのも良いことであるが、用い方を間違えると悪くなるということでしょう。

それらは神様があなたに賜物として与えたもの。神様はそれらをどのように用いるかを見ておられるのでしょう。

良い賜物を与えてもらった人は、そのような賜物を与えられていない人よりも責任は重いのではないだろうか。

こうして人は誰でも神様に義務を背負って生きているのですから、あせらずに自分の道を歩き、他人には寛大であれと思います。

他人に寛大であるためには、己の罪深さと弱さを知る必要があると思うのです。

わたしは人にいつもにこにこしていると言われます。

不思議にわたしはあまり腹が立たない。過去を思い出しても、他人に暴言を吐いた記憶がない。

暴言を吐く人によく出会いますが、この人も何か心に傷というかコンプレックスを持っておられるのか、何か心にこだわりがあるのでは,みんな弱いのだと妙に納得してしまうのですが、それでも暴言を吐かれると、心は痛みます。

人を批判したくなるときは、他人を批判するけれどもお前はどうだ、と言われていると思うのです。

聖書は、自分は罪を犯していない、正しいことしかしていないと、自信があるのならば(実際にはその様な人はいないのですが)人を裁いてもよいが、そうでなければ人を裁くなと教えています。

そうであれば人を裁くことのできる人など一人もおりません。

しかし、裁くなと言いましても、裁かなければ人間社会は成り立ちません。裁判所はどうなるのでしょうか。悪事を働いた人を放置しておくわけにはいきません。

それに、ただ愚痴をこぼすとか、批判するだけでは裁くとは言わないのではないでしょうか。

ヨハネの福音書18章34節にこのようなイエスの言葉があります。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」です。

15章17節では、「これがわたしの命令である」と言われています。

現実の社会制度としては、秩序を保つためには裁くことも必要ですが、「あなた方」ですから、個人としては、キリストにある者は、敵を赦し、互いに愛し合いなさいということでしょうか。もちろん、この愛は、ラブではありません。

イエスは弱い人の見方です。優れている人もそうでない人も、良い人も悪い人も神様からみればその差はわずか。とくに弱みにおいてはみんな同じです。

自分は善い人で人は悪い人と思っている限り、救いはないと思います。

なぜなら、そういう人は自分の罪を知る機会がないのですから、悔い改める機会もないということになるからだと思います。

自分は赦されているという自覚があるから、他者を攻めるのではなく赦すことができるのです。

同時にそれは、愛することになるのでしょう。

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