キリスト教の福音
今回は、福音とは何かについて考えてみたいと思います。
その前に、キリスト教の罪について書いておきます。
わたしたちを罪の中から救済するとはどういうことかと言いますと、わたしたちは神に造られた存在です。だからわたしたちは造られた計画のもとに生きることが求められます。
ところが今のわたしたちはその神から離れて自分勝手に生きているのです。
それは明らかに神にとって人間は罪の中にあるわけです。
わたしたちの周りに起こっている悪いことは全てそこから派生して生まれていると言えます。
そういう異常な状態にある神と人間の状態を正常な状態にするための神は御子イエスをこの世に遣わされたのです。福音とは、そのために神が一方的にご計画されている人類救済のためのみ業と言えます。
それでは、福音について使徒パウロの言葉を借りて考えてみたいと思います。使徒パウロは福音を次のように言っています。
ローマの信徒への手紙 第1章16節「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
使徒パウロによると、福音を一言で言えば「救いをもたらす神の力」だと言っているのです。
その力は、「イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」(マタイの福音書第19章26節)とある何でもできる神の力です。
福音は別名良き知らせとも言います。良き知らせを一言で言えば、一人のユダヤ人であるナザレに生まれたイエスが主キリストであり、世界の救済者であると告知する事、それが事実ならば我々人間にとってはとても良い知らせと言えます。
その良き知らせを持ってきたイエスは、ローマ総督によって十字架刑で処刑されたイスラエルのナザレの大工の息子にすぎません。
そのような者を主であるとか世界の救済者であるとすることは、神のみ業を信じていない人にとっては愚かなことです。
その愚かなことを、なぜ使徒パウロは恥とせず命をかけて世界に向かって告白するのか。
それは、「福音は救いに至らせる神の力である」という御言葉が働く場の力の現実に身をもって体験していたからと言えます。生涯をかけて、命をかけて世界に告白するだけの価値があることなのです。
キリスト教が、今日まで生き残ったのは使徒パウロのような信仰者が次から次と生まれて、その信仰が引き継がれたからと言えます。もちろん、そこには神の霊、聖霊の働きがあります。
神の言葉、つまり、イエス.キリストの言葉であり聖書の言葉には神の思いが込められています。神の思いは、それを信じて聞く者に影響を与えて変容させる現実の力といえます。
よく聞くのが、聖書の一節を読んでキリストを信じ、人生が変わったという人が多くおられるのも事実です。すごいでしょう。目に見えない力がイエスの言葉に働いているのです。
福音は神の働きと言いましたが、どういう働きかといいますと、人を罪の中から救いあげる方向に導く働きと言えます。その働きは、「すべて信じる者に」ですから、信じる者がいる場に働くのです。
その救いの力は、外から働くのではなく、信じる者の中で働いて、人を造り変え、新しい別の姿へと変容させ、救いに至らせるのです。そう、新しい人類の誕生なのです。
そして、その力の源は、神の霊(コリントの信徒への手紙 第二 3章18節)といえます。
福音の言葉がこのように信じる者の内に働いて変容させる神の力となるのは、福音を信じる者に神の御霊、聖霊がもたらす結果だといえます。
人々に救いをもたらす神の力、「なんでもできる」と言われる神の力は、イエス・キリストを信じる全ての人々を救いに至らせる力です。
救いの完成は将来のことですが、救いのみ業は未来の出来事ではなく、イエスご生誕の時からすでに始まっています。
そして、この働きは、神の約束ですから必ず成るのです。だから既に成ったのと同じなのです。
現在すでに「救いに至らせる」神の力、救いに向かう聖霊の働きがキリストを信じる者の中で始まっているので、わたしたちは現実に救いへの過程にあるといえます。
そして、救いの力が働いて現在それを体験している人がいるからこそ、時間の中で生きるわたしたちも救いを確実に到来する未来として待ち望むことができとも言えます。
このように、聖書の神はわたしたちの内で常に働いておられる神です。どこか遠いところで鎮座しておられる神ではないのです。神は人間の歴史の中に働く、霊であり、創造であり、出来事なのです。
人を救いにいたらせる神の力は、物理的な力ではなく、言葉によって働く霊的・人格的な力となります。人格的なですから、その言葉を信じる者にのみ働く力となります。
その力が働くのは、イエス・キリストの言葉を信じる場(使徒パウロはそのことを「キリストにあって」と表現しています。)においてのみなのです。
わたしたちは神に創造された存在ですから、その神から離反している状態は創造者神に対し罪にある状態です。
その神との断絶を克服して救いに至らせるために愛である神は御子イエスをこの世におくり十字架にかけてわたしたちすべての人間の罪を一方的に無条件で許されたのです。
したがって、今度はわたしたちが神の方を向く必要があるのです。人間が神を信じていなければ神はその人に働き掛けることができないのは当たり前です。
そして、神は決して人間の心を強引に自分の方に向かせようとはされません。あくまで信仰は自由意志です。神は忍耐を持ってわたしたちがご自分の方を向くのを、働き掛けながら待っておられると思うのです。
神の力の働きを受けるのは、何ら条件はなく、つまり、どの民族、どの宗教、男女の別、教養も文化程度も問いません。
それを「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、」と表現しているのでしょう。「ギリシア人にも」と言うのはユダヤ人から見てユダヤ人以外の民、つまり、異邦の民すべてをさします。
神の民イスラエルの歩みを見てみますと、神は人類救済のために、まずイスラエルの先祖アブラハムとその子孫をご自分の民として選ばれ(創世記12章1節から3節)、モーセをはじめ預言者たちを通して語りかけ、言葉によって働いてこられました。
そして、預言者によって預言されていた「終わりの日」に、ナザレのイエスを十字架につけ、死者の中から復活させキリストとしてお立てになりました。同時にナザレのイエスが神の子であることを示されました。
アダムの子孫であるわたしたちは生まれながらの本性(自己中心性)に従って生きている古い人間です。キリストにある人間は、アダムにある罪と死から解放され、御霊と共に生きる新しい人間です。
古い人間は、神の前にも自己を主張しょうとする。自己主張で救われようとすることは、自分の基準による行いで神との本来の関係に入ろうとすることです。
罪を赦し救いに導くのは人間の能力とか努力ではなく創造主である神がなされることです。
キリストにある、という場では神がキリストを通して働かれるのであり、キリストが神の働きを働かれるのです(ヨハネの福音書10章30節)。
神がキリストを通して働かれる。人間はその働きを受け入れるだけです。受け入れる人間の資格は一切問われません。
わたしたちは、ただキリストにおける父なる神の恩恵にすがるだけです。
律法(法律とか戒め)は行いを裁くのですが、人の行いはその人の能力とか生まれた環境とか努力にかかわりますから、行いによる裁きは不公平が生みます。
だから、キリスト教は信仰によって救われるのです。パウロは、人が義とされるのは、律法(行ない)によるのではなく信仰による(ローマの信徒への手紙3章28節)と言っています。
もちろん、信仰とは、約2000年前にイスラエルのナザレで生まれた大工の息子イエスがキリストであると信じることです。
信仰によってのみ救われると使徒パウロは言っていますが、よく考えると、信仰とは信じ委ねることですから、行いが必ず伴うのです。
そうでしょう、信じていますと言いながら反対のことをしていたら信じていると言えるのでしょうか。言えないと思います。
やはり、信じているならば信じている方の教えを忠実に守る、あるいはそのために努力が必要と思うのです。しかし、キリスト教は他力本願で、自己努力は必要ないのです。
その、信仰と行いを導いて下さるのが聖霊だと言えます。そういう意味では、信仰のみで救われるというのは正解ですね。
キリストの働きは、実際には聖霊の働きとして現れます。したがって、キリストにあってという場で働かれるキリストを聖霊と呼ぶのが正しいと思います。神がキリストを通して聖霊によって働かれるのです。
信仰も行いも聖霊の働きに委ねなさいということだと思うのです。そのために必要なことは、イエスの言葉を信じ、読み・聞き心に留めておくことだと思うのです。
キリストを告知する福音を受け入れ、キリストに自分の全てを投げ入れて委ねるものは、そのキリストに結ばれることによって聖霊が働かれて救いに至る。そのことを信じるのがキリスト信仰と言えます。
福音を受け入れてキリストにあるという立場に入るとき、その場に働くキリストの働きを受けて、今までの自分とは違う別のわたしが生まれる。この出来事を聖書は新生と呼んでいます(ヨハネの福音書3章3節)。
生まれながらの古い命とは別のいのちが新しく生まれ出る。その新しい命は、死んでも生きると言われた命です(ヨハネの福音書11章25節)。
その命を永遠の命と呼んでいます。
わたしたちを創造された神は忍耐の神です。愛の神です。必ずや過去・現在・未来のすべての人々が救われるまで福音の活動は終わらないとわたしは信じます。
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