片手になっても
マルコの福音書9章43節
●43節.もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
このイエスの言葉を読みますと、恐ろしくなります。
憐みの神はどこへ行かれたのかと思います。
どの宗教も、地獄を恐ろしいところと強調して、信仰に入るように勧めます。
キリスト教もほかの宗教と同様、人を恐怖に陥れて信仰に入るように勧めているのでしょうか。もしそうであるならば、わたしは今からでもキリスト信仰を捨ててもよいと思います。
でも聖書をよく読めばその様には思えないのです。
イエスの十字架により、わたしたちには神の無条件の恩恵が与えられました。
しかし、地獄はこんなに恐ろしいところだから悔い改めて信仰に入りなさいとはどこにも書いていないのです。
逆に、地獄とはこのような恐ろしいところですが、あなたたちは既に救いの恵みに与っているのですよ、と言っておられると思うのです。
キリスト教は、イエスの十字架から始まったのですから、救いの恵みが最初にあるのです。
頭書の聖句は、わたしたちは誰でもイエスの言葉を信じることによって、無条件で神の国に入る恩恵を戴くことができるのですから、その信仰を妨げる(つまずかせる)ものは、たとえ身体の一部のように大切なものであっても、切り捨てなければならないほど真剣な問題であると言われているのでしょう。
イエスはこのように、いつも何が大切かを問われています。
イエスと共に十字架につけられた犯罪者は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言っただけで、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」と何ら条件を付けずに救いを断言されたのです。
この犯罪者は、十字架上では良いことをすることはできません。
それでも、苦しい息の下でイエスを信じ、イエスにすがる一言を発し、それによって救われたのです。
地上の生の最後の瞬間にイエスと結びついたことで、「今日」イエスと一緒にパラダイスにいることになったのです。
だから、救われるのにはどれだけ長くイエスと一緒にいるか、どれだけ長く信仰生活を送っているか、どれだけ多くみ言葉を知っているかは問題ではないのです。
もちろん、良い行いも何ら求めておられません。
いま現在イエスの言葉を信じていれば、いま死んでもイエスと一緒にパラダイスにいることになるのです。
誰でもが悔い改めてイエスの言葉を信じるだけで救われると言う、無条件で受けられる恩恵であるから、その反面、救いの恵みに与れなかった人の行く地獄は厳しいところだと言うことでしょう。
神は人間を地獄へ落とそうとは思っておられないと思います。地獄は、あくまで悪魔のためにあるのであって、人間のためにあるのではないと思います。
救いが先にあって地獄があるのです。まず、救おうと思っておられるのです。
そして、十字架の恵みは、無条件で効果はすべての人にもたらされます。
ですから、神は全ての人を救いたいと思っておられるのです。それが始まりなのです。
神はその様な方ですから、忍耐強いお方です。
過去現在未来のすべての人間が、イエスを主と崇めるまで最後の審判は待って下さると思うのです。
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