父の家
ヨハネの福音書14章2節
わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
これはイエスの言葉ですが、この「父の家」には誰が住むのでしょうか。
足らなければ「わたしが住む場所を用意しに行く」とも言われています。
父、すなわち、神の家ですから、誰でもがイエスの父の家に住むことができるわけではなく、イエスの父の家に住むことができる人はイエスの言葉を信じ心にとどめた人、つまり救われた人だと思います。
それに、その父の家に住むことができる人数は、このイエスの言葉からすると、足らなくなってもイエスは用意すると言っておられるのですから、制限はなく、無限大だということです。
この無限大は、おそらく、父なる神の無限大の赦しと恩恵を表しているのでしょう。
もし父なる神の恩恵に限度があるのであれば、そして、救われるのにこの地上での人生でイエスに出会うことを条件にするならば、今までにこの地上に生まれた人のほとんどは、父の家に入ることはできないと言うことになり、救われる人は限られてしまいます。
そうすると、過去・現在・未来の全人類の救いのために十字架上で血を流してくださったキリストの慈愛が、神の思いの実現がある意味制限されることになります。
そうでしょう、もし、救われる人間を制限しているならば、イエスは、ご自分の十字架上の死は、すべての人間を救うための贖いだと言われているのですから、矛盾します。
だからこの聖句は、父なる神の限度のない無条件の恩恵を証していると思うのです。
救いに与るのは、選ばれた人のみという考えがあるのですが、もし、選ばれた人のみが救われるならば、イエスの罪の贖いの十字架は必要ないと思うのです。いかがでしょうか。
わたしは少なくとも十字架は万人のための十字架だと思っています。
キリストを信じ、キリストに合わせられて自分に死ぬ者は誰であっても、父なる神の恩恵により聖霊を与えられて、新しい生命に生きることができる。この恩恵に限度はない。
忍耐強い神は、たとえこの地上でイエスに出会うことがなくても、何度でも、それこそ七の七十倍(無限大)でも罪を赦し、すべての人が救われるまで、その裁きを待って下さると思うのです。
もちろん、罪に沈むわたしたちには、清めの時(艱難の時)も必要かもしれませんが、憐み深いキリストは、清めの時間もできるだけ短くしてくださると信じています。
わたしはその様に信じその様になるように祈っています。
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