不幸もいただこう
ヨブ記 2章10節
●10節.ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
ヨブ記は義人ヨブの苦難を主題にしています。すなわち、正しい人がなぜ理由もない苦しみを受けなければならないのかという問題です。
今を生きるわたしたちも、同じ問題を抱え、悩んでいます。人生を考える人にとっては、切実な、深刻な問題と言えます。
ヨブ記は、この誰でもが思う人生の不可解というか不条理な問題を題材にイスラエルの知者が創作した文学だということです。
さて、別の面からヨブ記を見ると、天上における神様とサタンとの戦いを、ヨブを通して地上でなされたことを記していると思います。
つまり、天上で、義人ヨブを誇る主の言葉、「主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。
地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(1章8節)、に対してサタンが、「ヨブは利益もないのに神を敬うでしょうか」[1章9節]と言って、サタンはヨブの敬虔な態度が利己的というか見かけだけのものであると主張します。
主はその様に主張するサタンの挑戦に応えて、ヨブが自分の利益のために神を敬うのではないことを証明するために、ヨブに苦難を与えることをサタンに許可したという経緯です。
ヨブはサタンの陰謀により突然の災害で全財産を失います。
その時ヨブは、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と言い、全身が病魔に犯されたとき、標題の言葉によって神への信頼と賛美を貫くのです。
わたしたちが理不尽な苦難に遭遇すると、「何も悪いことをしていないのに、なぜ、このわたしがこのような目に遭わなければいけないのか」と嘆きます。
このヨブ記の著者は、この苦悩の内容を、ヨブと三人の友人たちの対話という形式で詩文の形で描いています。
そんなヨブも、最初はさんざん愚痴を述べ、理不尽さを嘆き、自分の潔白を主張しましたが、最後には神の前に「あなたのことを、耳にはしておりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」と告白します(42章5節)。
そして、「塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(42章6節)。
すなわち、今までは友人たちから聞く神によって、自分と神との関係を見てきたが、これからは、自分と神との直接の関わりの中で現状をすべて受け入れる、神を信じる信仰に変わったということではないでしょう。
人生には他人には代わってもらえない、理不尽と思われるような苦しみに見舞われることがたびたびあります。
わたしたちは、その苦しみの中で父なる神の恩恵への感謝と、信頼に生きる中での信仰告白が、標題の言葉となったのでしょう。
聖書は、この世で起こっているすべてのことは、無駄なことは一つもないと言っています。
このわたしたちの身に起こっているすべてのことには意味があるのです。
それは、神様がもろもろの苦悩を用いて、わたしたちの益になるように報いて下さるからです。
わたしたちはそのような神様の約束の言葉を信じて、あらゆる人生の苦難に耐えることが必要なのでしょう。
パウロはコリントの信徒への手紙一10章13節に次のような言葉を残しています。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。
あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。 」
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