狭い門から入りなさい
マタイの福音書7章13~14節
●13節.「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
●14節.しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
イエスは、2000年前にこの地上に来て、わたしたちの生き方を示されました。
当時イエスをメシアと信じる人たちの群れを、「この道」と言っていました。(使徒言行録9章2節、19章9節ほか)
わたしたちが通常「道」という場合、人としてどのように生きるか、その生き方を指していると思います。
世には実に様々な生き方、すなわち道があります。
人間としてこの世に命を授かれば、通常、どのように生きるか、どのような道を歩むかは重要な問題となります。
古来、多くの賢者たちが真の道を求めてそれを説いてきました。
イエスは人の歩む道を二つに分けられました。ひとつは滅びに至る道、もう一つはいのちに至る道です。
この滅びとかいのちというのは、この体の生死とか人生の破滅とか成功を意味することではありません。
問題はやがて死ぬべきこの体の内に、来世においてもなお生きることのできる生命を持っているかどうかということなのです。
それは、我々の創造主、生命の根源たる永遠に存在される方、そう、そのお方と共に生きることの出来る命を持っているかどうかなのです。
創造者たる神はこの終わりの時に臨んで、御子イエス・キリストをこの地上に送り、十字架にかけ、死人の中から復活させて、死すべき人間に神と共に永遠に生きることのできる新しいいのちに授かる道を示されました。
神の生命、永遠のいのちとは、復活に至るいのちです。だから、復活に至らないいのちは滅びる命です。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイの福音書16章26節)です。
それでは、いのちに至る道、すなわち来世での復活に至る道を歩むにはどうすればよいのか。それは、狭い門から入りなさいとイエスは言われました。
狭い門とは、約2000年前にイスラエルの地での出来事であるキリストの十字架の死が、自分のためであることを信じることです。
それは、自分の存在が罪の中にいることを認めて、悔い改めることなのですが、それは自己否定につながります。
しかし、このような自己否定は、自己本位な本性をもつ人間には自らはできないことです。
だからイエスは言われる、その狭い門からはいり、復活に至る道を歩む者は少ないと。
しかし、同時にイエスはその狭い門から入る方法も教えておられます。
それは、イエスの言葉を信じ心に留める者には、聖霊を送る、その聖霊があなたたちを罪の悔い改めに導き、新しい復活の命に至る道を歩ませて下さると言われています。
神の御霊、聖霊によらなければ、誰もいのちの道、復活に至る道を歩むことはできないのです。
キリスト教は救われるのに、仏教のように修業は必要でなく他力本願なのです。
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