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2013年9月20日 (金)

異邦人の神

ローマの信徒への手紙3章29節

●39節.それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。 

ユダヤ人と異邦人(ユダヤ人以外の諸民族)は、ユダヤ教教徒と異教徒という意味でもあります。

当時ユダヤ人たちは、唯一まことの神は、割礼を受けてユダヤ教団に所属する者たち(ユダヤ人)だけの神であって、異教徒は神に縁のない者と固く信じていました。

したがって当然、異教徒が神の民となるには割礼を受けてユダヤ人にならなければならないと考えられていました。

そのような世界にイエスは福音を告知しました。

つまり、「人は誰であっても、主イエス・ キリストを信じることによって救われ、神の民となる。異教徒は割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、異教徒のままで神の民となる」ということです。

このイエスの教えにユダヤ教団が猛烈に反発して、イエスを十字架で殺してしまったのです。その直接の理由は、セーセ律法(特に安息日)を守らないことです。

イエスの教えはユダヤ教徒にとっては自分たちの存亡にかかわる問題ですから猛烈に反発するのは当たり前です。

現在でも、多くのキリスト教会は、神は自分達のところにおられ、異教徒の世界には真の神はいないと主張しているところもあるように思います。

それに、神の救いを得ようと願う者は、洗礼を受けてキリスト教会に所属しなければならないとするところもあります。

はたして神はキリスト教徒だけの神でしょうか。それに、洗礼とか教会員になることが救われるための条件でしょうか。わたしはその様に思いません。

異教徒も神の子で、神の被造物には間違いがないと思うのです。

そうであれば、神は異教徒の神であってもおかしくはないと思うのです。

なによりもイエスは、十字架に架けられて死ぬことにより、過去・現在・未来の全人類の罪を贖われたのですから。そこには、種族とか宗教とか国家などの区別はありまsん。

聖書では、神の民になるには、他に何が無くてもイエスの言葉を信じ、心にとどめることによって救われるとしているのは事実です。

これは洗礼を受けているとか、教会員であるとか異教徒であるとか関係なく神は唯一であって、キリストを信じる者を義としてその信仰によって救われると思うのです。

つまり、異教徒(キリスト教徒以外)のまま普通一般の生活の場でキリストの言葉に出会 い、キリストと結ばれ義とされて神の民となることができると思うのです。

もちろん、キリスト教会(エクレシア)、広くは信徒が集まるキリストの共同体はキリストの民の信仰の要としての重要な役割を担うのは間違いありません。

最後に使徒パウロの言葉を書いておきます。

ローマの信徒への手紙10章9節「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」と宣言しています。

この聖句のどこにも、救われるには、洗礼を受けるとか、キリスト教会員でなければならないとは書いていません。

最後に、わたしは異教徒であっても誰であってもすべての人が、いや、普通の人は最終的にはすべて救われると思っています。

そうでしょう、イエスは弟子たちに「イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイによる福音書 / 18章22節)と言われたのです。

つまり、誰であっても完全に赦しなさいと言うことです。イエスが弟子たちにこのように命令されたのに、ご自分がわたしたちを裁かれるときに一部の人でも赦されないことはないと思うのです。

聖書の神は忍耐強い憐れみ深い赦しの神です。

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