見えないものに目を注ぐ
コリントの信徒への手紙第二 4章
●18節.わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
「見えるもの」とは、この世のすべての現象、またわたしたちがこの世で体験するすべての出来事です。わたしたちが直接五感で感じたり、体験することはできることです。
それに対して「見えないもの」とは、来るべき世の現象とか出来事です。
わたしたちが直接五感で感じたり、体験することはできないことです。
そこは永遠に存続する世界です。その様な見えない世界があることをわたしたちに伝えにイエスはこの世に来られたのです。
「見えないものに目を注ぐ」とは、見えないものに関心を持って、それに自己を委ねて生きることでしょう。
「見えるもの」か「見えないもの」か、どちらに目を注ぐかによって、人生は、あるいは世界の見方はまったく違ったものになるでしょう。
それは、この肉体が滅んだあとの来世における永遠の命に希望を持って生きるか、この肉体をまとった死に至る命の中で、目の前の浮世を見て生きるかの違いです。
ここで、パウロは神について、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」と言っています(4章14節)。
このようにパウロは復活の希望を語ります。
復活の希望の中で、「見えないものに目を注ぐ」と言っているのです。
だから、パウロが言う「見えないもの」とは終わりの日の復活のことだと思います。
イエスの言葉を信じる者は、イエスが死から復活されたように、来世において「霊の体」を戴いて復活し、神と共に永遠に生きる者となるのです。
それはイエスが告知された福音という神の言葉によって約束され、 信仰によって望む将来のことです。
つまり、キリストの十字架と復活の出来事に含まれた将来であります。
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピの信徒への手紙3章10節・11節)。
この復活への切なる願いが使徒パウロの原動力となったのでしょう。
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