からし種一粒ほどの信仰
ルカの福音書17章
●5節.使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
●6節.主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
6節のイエスの言葉は、5節で弟子たちがイエスに、「わたしどもの信仰を増してください」とお願いしましたが、その依頼に対するイエスの答えです。
わたしたちも常に信仰を増し加えてくださいと祈っています。なにしろ、義とされ救われることも、聖霊の賜物を受け復活の希望に生きることもすべて信仰がなければ話になりませんからね。
確りとした信仰生活を送るためには、自分の信仰が増すことが何よりも求められます。
そのような願いに対するイエスの答えが6節なのです。
6節のイエスの言い方でしたら、弟子たちには、ひいてはわたしたちにはからし種一粒ほどの信仰もないと断定されているようです。
このようなみ言葉を読むと、自分の信仰を省みて、本当にこれで良いのかと心は穏やかではありません。はてさて、どうすればよいのでしょうか。
その答えを探すために、他の聖書個所を探してみましたら、ルカの福音書17章7節から10節で主人と僕のたとえ話が参考になると思いますので取り上げてみました。
そこの個所を簡単にまとめると、主人が畑から帰ってきたばかりで疲れ果てている僕に、夕食の用意をするようにとか、わたしの食事を済ますまで給仕をしてくれるようにと命じても当然ではないか。
そうしたからといって主人は僕に感謝などしない。そして、「あなたがたも同じことだ。
命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」というたとえ話をイエスは語られています。
信仰とはこの僕と同じ立場で生きることだと教えられておられるのでしょう。
イエスの言葉を、ただそれが神の言葉であるからという理由だけで、無条件に行ない守りなさいと言うことでしょう。
無条件ですから、僕であるわたしたち信仰者の判断を必要としないのです。
つまり、わたしたちの能力や価値観でイエスの言葉を信じるとか、行うのではなく、自分を無にしてただそれが神の言葉であるという理由だけで、信頼して守り行ないなさいということでしょう。
信仰は神様からの賜物とパウロも言っていますから、イエスの言葉を信じると決めたら、あとは神様に委ねればよいのです。わたしたちは、み言葉に親しみ、心に留めていればよいのです。
もし、能力とか価値観で、個人の判断で行うか否かを決めれば、人それぞれ置かれた状況も、能力も価値観も違うのだから、行える者は自惚れ、誇りを持つようになり差別を生みます。
だから、誰もが誇ることのないように絶対的に平等を求められているのでしょう。
信仰は神様の賜物です。だから、信仰がその人の都合で増加したり減少したり、守ったり守れなかったりするものではなく、信じると言うことは、ただ無条件に神の言葉を信じると言う行為だということでしょう。
なお、神様は信仰を与えてくださり、行いを導いて下さるが、信じるか信じないか、行うか行わないかの判断は人間側にあり、いつでもではなく、その時(神様の)があると思うのです。
また信仰も行いもわたしたちは弱い人間ですから、長い人生の中で誘惑に負けて遠ざかったり、躓いたりしてなかなか守れないものです。
だから、信仰とか行いは一時期あるいは個々の問題を言っているのではなく、わたしたちの人生そのもの、トータルで言っているのだと思うのです。神様は、わたしたち人間は弱いものであることをよくご存じですからね。
長い人生です、躓くこともあります。迷うこともあります。
それでもイエスの御霊、聖霊は、わたしたちの信仰をささえ、わたしたちの身に起こる人生のあらゆる出来事を、それは間違っている行為であっても、最終的に益(わたしたちのためになるように)にして下さるとわたしは信じています。
最初はからし種一粒ほどの小さくて弱い信仰であっても、やがて強くなり大きな実を結ぶ。それが神の国の摂理なのでしょうね。
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