他者より優れた者
コリントの信徒への手紙第一 4章
●7節.あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。
この言葉は、コリントの教会の中で自分をほかの者たちより優れた者として高ぶっている者を使徒パウロが戒めるために書いたものだということです。
教会の中での出来事です。といっても、神は全ての被造物の神ですから、クリスチャン以外の人にも同じことが言えると思います。
わたしたちは、あらゆる他者より優れた能力、つまり、恵まれた生活環境にせよ、知識にせよ、霊的能力にせよ、信仰にせよ、健康にせよ何においても主から恩恵によって賜ったものである以上、自分を他者と比べて優れた者と自慢することはできないのですが、パウロはこの言葉に続けて、「もしいただいたのなら、なぜいただなかったような顔をして高ぶるのですか」と言っています。
わたしたちが生まれたのは何か目的があって、そのために必要なものを具えられて生まれてきたのです。
だから、わたしたちが持っているものは、自分の能力で獲得したものではないし、何か戴く資格があって戴いたものでもないのです。
そうであれば、戴く資格がないのに恩恵として与えられたものということになります。
だから、たとえ他人が持っていないものをたまたま持ったからと言って、それは神様からの無償の賜物なのですから、何も自慢することなどできないのです。
聖書には、むしろ神様に感謝し、その能力を他者のために用いなさいと書いてあります。
もちろん、時(この地上で生きている時間と考えてもよいですが)もそうです。わたしが68年間もこうして健康に生きてこられたのも、今生かされていることも神様の賜物なのです。
わたしの努力とか能力の結果ではないのです。
ただし、食事をするとか、健康に気をつけるとか、学ぶことなど自分のメンテナンスは必要ですから、そのメンテナンスは人間が自由意志で選択して、努力する必要があると思います。
木に水をやるのは人間ですが、その木を大きく育てるのは神様だということです。
だから、新しい人間の創造と言う神様の人間救済のみ業の完成は、神様と人間の共同作業だと思うのです。
こうして考えると、生かされている人生と言う時は、必要があって戴いた人生ですが、間違ってはいけないのは、この人生と言う時はわたしの持ちものではなく、神様の持ちモノだと言うことですね。
人生の時を自分の持ちモノとすれば、それは傲慢です。
ですから、生かされていると言うのは、わたしと言う人間が、神様の目から見て、まだこの世で生きる必要があるということなのでしょう。
神様を知ると、いま、生かされていることへの感謝に涙が溢れることがあります。わたしは毎日毎朝一番に「今日を与えてくださり感謝します」と祈ります。
何時病になり死んでもおかしくないのに、また、今日一日という日を与えてくださったのです。この一日がどのような内容であろうとも、この一日でわたしの人生が終わろうとも、今日一日を与えてくださったこと自体を感謝すべきであると思うのです。
生きがいを求めるってどういうことでしょうか。生かされていること自体が感謝であれば、生かされて生きていること自体が生きがいだとも言えないだろうか。そう、生きているだけでマル儲けです。
わたしの所属する教会の牧師に、クリスチャンはどのように生きればよいのですか、と質問しましたら、何も特別なことをしなくても自然体で生きていればよいのでは、と答えられました。
もちろん、祈ることと聖書を読むことは当然のことですがね。
あ、そうそう。わたしには何も優れたところがない、あるいは、わたしは重度の身体障害者ですから何もできないと言われる方は、何も特別なことができなくても、そのままでよいから、隣人の助けを借りて、持っている能力を、残された体の機能を使って精一杯この世を生きなさいと言われているように思います。
偉そうなことを書きましたが、わたしはその人たちが心強く希望を持ってこの世を生きていけるように祈りたいと思います。
もちろん、わたしも弱い人間で、たびたび自分の能力不足を感じるのですが、その不足する能力を増し加えてくださるように祈りたいと思います。
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