神か富か
マタイの福音書6章
●24節.だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
わたしたちは決して偶然の産物ではなく、神様の創造物です。創造されたのならば何か目的があってご計画のもとに創造されたと言えます。だから、この世のすべての物とか出来事に意味があると言えます。
また、わたしたちは意識しているかいないかにかかわらず、なにかを目標というか、目的として、それを自分の人生の生きがいにして生きています。
それは言い換えれば何かに仕えて生きているともいえます。そして、何に仕えて生きるかが、その人の人生を決めると思うのです。
わたしたちは被造物だから創造主に仕えて生きるのが当然だと思いますが、 多くの人は金銭的に豊かになりたいと思って生きています。
学ぶことも学校を選ぶのも就職先を選ぶのもすべてできるだけ多くの富を得るのが目標です。
確かに富は人生を生きるためには必要なものです。それを獲得するには苦労が多いのも現実です。
苦労して富を求めていると、富はあくまでも毎日を平穏に暮らすための手段に過ぎないのにその富を極大化するのが目的となり、富を求めることに振り回され、富を得たらその富をさらに増やそうとし、また、守ることに奔走する。
そうすると、自分は富に振り回され神に目がいかなくなり、つまり、仕えることになり、富が主人になる。本来は創造主に仕えるはずなのに富に仕えることになると思うのです。
ご存じのとおり、人間社会を見渡せば、富は人を奴隷にするが幸福にしていないのが現実です。安心して暮らせる生活を求めるのではなく、お金を増やすのが目的になるのですね。
世には仕えきれないほどの富を持っておられる方がいますが、その人たちが幸福とは決して言えないのも事実です。
この聖句は、その富と創造主である神様の両方に仕えることはできないと教えています。
そしてイエスは、富ではなく創造主である神様に仕える生き方をしなさいと言われています。
仕える対象が富なら目に見えるから分かりやすいが、目に見えない神様に仕えるとはどのような生き方だと問われそうですが、それは、言い換えて表現してみると、神様との交流を大切にして、すべての人は神様が作られたのですから同じ作られた者同士、互いを大切にする生き方、人間に仕える生き方だと思うのです。
そうですね、人間に仕えることが神様に仕えることになるのだと思うのです。
神様との交流は、神様のみ言葉を常に心に留めて生きることでしょう。
神様は御自身の像(かたち)に 従って人を造り、人を愛して、万物を人間のために造り与えられました。
ですから、その人が富を得ることができたのは、本人の努力もあるが、その富を得るための健康とか知恵とか環境とかは、神様がその人に与えられたものであり、その人の賜物だと思うのです。一時、この世にいる時だけ神様から預かっているだけということです。
与えられた富を感謝し、それを用いて人に仕えるならば、それは神様の御心に沿うことですから、神様に仕えていることになると思うのです。
その様な生き方が、神様に喜ばれる生き方と言えるのではないでしょうか。
逆に富に仕える者は、富を得るために人間をそのための手段として利用し、人間を犠牲にして富を極大化しょうとするのです。
そうすると、その人は自分の創造主である神様からどんどん遠ざかり、目的と手段は逆転し、神様の秩序は破壊されます。その秩序の破壊が、ご存じのように罪のまん延を指しているのでしょう。
神様から離反し、神様の御心に逆らっていては、神様の祝福に与ることはできないのではないでしょうか。そう、人間が神様の方を向いていなければ、神様はその人に何もできないのです。
だから、神と富の両方に仕えることはできないのです。われわれは富に仕え神様を憎む(無視する)道を歩むのか、人に仕え神様に喜ばれる道を歩むのか、どちらかを選ばなければならない。
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