同じ秤で量る
ルカの福音書6章
●38節.与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。
わたしたちの本性は自己中心ですから、気がつかないで、自分の価値観で人を裁いています。ここの秤のたとえは、そのことをわたしたちに教え、誰が裁き主かを教えているのでしょう。
秤は用い方によって正しくも不正にも使えます。物を売る時と買う時に違った秤を使うということは、秤を不正に使う時です。正しく使うときは同じ秤を使って量ります。
わたしたちには自己を無意識のうちに守ろうとする、人より高くあろうとします。
そのために人と自分を比較してすぐに人を裁きたくなるものですが、わたしたちは自己中心ですから、自分の秤で、つまり、自分に都合の良い(相手に厳しい)秤で人を裁きます。
反対に自分を裁く場合は違った秤、自分に優しい秤で自分を裁くのです。
そして人に自分と違う部分があれば、その価値をできるだけ低く評価し、あるいは、違いがあることを理由にして無視します。
しかし、そもそも裁くのはわたしたちでしょうか。わたしたちは被造物です。被造物が被造物を裁くなどもってのほかです。
被造物は創造主が創造の目的に沿って裁くものだと思うのです。
テレビは人間が創造主ですから、テレビの良し悪しは人間が決めて、役に立たなければ創造主である人間が壊します。それと同じだと思います。
秤にたとえるならば、人間は被造物ですから、すべて量られる立場にいると思うのです。
創造主である神だけが人間を量る権限を持っておられます。
もし人を量る立場にないわたしが自分の秤で他者を量り裁いているならば、神は正義の神ですから、神も御自身を秤として他者を裁いたわたしを量り、裁かれるのです。
その秤り方の基準は神の基準ですから、わたしたちはとても耐えることなどできませんし、すべてをご存じの神様が裁かれるのですから、反論できない裁きで、その裁きは絶対的に正義です。
だからイエスはこう言われる、「人を裁くな、そうすれば(神に)、あなたがたも裁かれることはない。
人を罪人だと決めるな。そうすれば(神に)、あなた方も罪人だと決められることはない。赦しなさい、そうすれば(神に)あなたがたも赦される。
与えなさい、そうすれば(神が)、あなたがたにも与えられる」(ルカの福音書6章37節から38節)。
そもそも裁く立場にない者が人を裁くと言うことは、神に代わって人を裁いているのですから傲慢そのものです。
だからそういう人たちに対する神の裁きは厳しいものとなると思います。
そこに共通する原理は、「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」という神の正義です。
神御自身の基準で裁かれた者は、それにはとても反論する余地はなく、神のと交わりから追い出されるのです。
そして、人を裁くことなく断罪しない者は、自分を裁く立場ではなく裁かれる立場であることを分かっている者だから、その様な者を神は裁くことなく慈悲を持って、無条件でその人の罪を赦し、受け入れて下さるのです。
人を赦すということは、人が自分と違っても違いがあるままで相手を無条件に受け入れる。神はそうする者を赦し、無条件で受け入れてくださるのです。
さらに、もし、自分が優れたところ、価値あるものを持っているならば、それを惜しみなく与える者になることでしょう。
自分自身を他者に与えてやまない者は、神からの良いものを溢れるばかりに受けることになる。この良いものというのは、聖霊の賜物のことでしょう。
それが同じ秤で量られる正義の神が支配される神の法則ということではないでしょうか。
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