人を裁くな
ルカの福音書6章37節
●37節.「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
この聖句の背景には、わたしたちは目的があって神によって作られた者であるということを認識する必要があると思います。
だからいまわたしたちが持っているものすべては、創造の目的の中で必要があって神様から与えられたものであるということです。
しかし、わたしたちは決してロボットではなく、自由意志を与えられていますから、創造主である神様は、その中でわたしたちがどのように生きていくかを見ておられるということでしょう。
そして、目的があって、ご計画があって作られたのならば、結果があり、人それぞれ進行度合いも違うということですね。
日常の営みの中で最も大切なことは、人間関係であって、その人間関係も創造の御計画の中で営まれるものです。
わたしたちは人の悪いところはすぐに目につくものです。
そのときはわたしが正しいと思っていても、時間がたてばその人がそういうことをしたり言ったりしたのには訳があると言うことが分かります。
そうすると悪いのは一方的に相手ばかりではない、あるいはその様なことを言うには事情があると気がつくようになります。
もちろん、この事情というのは、その人が持って生まれたもの、育った環境、歩いた人生などなど人間一人ひとり与えられたものが違いますから、当然、事情も違います。
その事情は、人格とか個性と言ってもよいでしょうが、それらはその人が発する言葉とか行動もそこから出てくると思うからです。
わたしたちは一個の人格を持つ存在としてこの世を生きている限り、何事も主観的に物事を見たり話したりするのは避けられないと思うのです。
だから思わず自分を基準にして物事を裁いてしまうところがあります。いくら気をつけてもこれだけは避けられないと思うのです。
ということで、人の言行は、その人に何か特有の背景があっての言行ですから、相手の欠点とか間違いが気になるのは仕方がないとしても、それは当然のことと受け止めて、深く気にしたり徹底的に正そうとなどとしなくてもよいと思うのです。
わたしたちは創造の過程で、まだ完成したものではありませんから不完全で当たり前です。誰でも欠点はあり、間違いもします。
それに、人間は自己中心ですから、正確な判断などできないのです。
現世的に見ていわれのない扱いを受けた時には、イエスは強行な抗議をしないで、させておきなさいと言われていると思うのです。
腹が立っても、抗議したくてもぐっと抑えて、良いことは良い、悪いことは悪いと誠実に対応していればよいと思うのです。
わたしたちは人の心の内を知ることはできないし、たとえ知っても正しく測れないのですから、人を正しく裁くことはできなのです。
わたしたちが見えない部分の裁きは神様が終わりの日になされるのです。
それにご計画があってわたしたちは創造されたのですから、神様は、何ごともそれを用いてわたしたちのために益にしてくださるのです。
その様に思えば、周りで起こっていることもあまり気にならなくなります。
そうすれば、他者に対し寛容な心というか、愛(赦す心)をもって接することができると思うのです。
もちろん、相手を正しく知ろうとする努力、自分が正しく理解されようとする努力は必要だと思いますが、必要以上に相手に求める必要はないと思うし、また、期待すべきでないと思うのです。
なにが最終的に悪いことなのか良いことなのかは所詮わたしたちには分かりません。
そこで上記聖句の「人を裁くな」ですが、間違ってはいけないのは、裁くなと言うのは判断をするなと言うことではないと思います。判断と裁きとは別物です。
だから心の中で思わず裁いても、いや、この人はこういう人だと判断しても、ひょっとすればこの判断は間違いかもしれないという心の余裕を持たねばと思うのです。
その判断を口に出し相手を強く糾弾するとか無理に納得させることだけはさけねばなりません。
それは相手の心を傷つけますから、まさしく裁きになります。
それに、人の心を傷つけるということは、神様のその人に対するご計画を阻害することになるのではと思うのです。
口を開けば人を非難している人がたまにおられますが、その言葉が相手の心に傷をつけると同時に自分の心にも傷を付けていることを知らなければと思います。
笑顔のないところに平安はなく、御心はないと思います。
そのようなことによって、神様の新しい人類の創造のご計画を阻害するようなことがあってはならないと思います。
困った人に出会えば、自分が間違っていると思えば謝り、それ以上のことについては、良心に従って、はいといいえだけ言っていればよいと思うのです。
人間は不完全なのだから、人の過ちはいずれ自分も同じ過ちを犯すものです。
その様に思えば、過ちを犯した人を同じ不完全なもの同士として愛する(赦す)こともできます。
また、わたしたちはどんなに注意しても、相手の心を傷つける言葉を発していることもあります。
それは、人の言葉には、必ず主観が入っているからとも言えるし、その人の心の内をすべてくみ取って正確に言葉を発することなどとても不可能だからです。
人の心のうちなど誰にも分かりません。分かるのは神様だけです。
だから、終わりの日にその人のすべてをご存じの神様は、その人を正しく裁かれ、正義が実現するのです。
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