時を支配する者
コヘレトの言葉3章
●1節.「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」
わが人生を振り返ってみて、つくづく思うのは、人生には何事も時があると言うことです。
それはどのような時かといえば、働く時、休む時。健やかな時、病む時、得る時、失う時。出会いと別れの時、愛する時、憎む時、笑う時、悲しむ時、そして、生まれる時があり死ぬ時です。
そういう時の流れの中で、色々な人生模様が描かれます。
その人生模様は、相反し、相矛盾していることもたびたびであります。
時の流れの中の出来事はすべて常ならず、すなわち「無常」です。西行法師を初め古来知識人はこの無常に翻弄されてきました。
「わたしの時」というとき、その時は人生の中でわたしの身に起こるさまざまな出来事の時であり、わたしの人生そのものであるといえます。
それは当たり前のことですが、聖書はその時を支配する者はわたしではなく神であると言っています。
わたしたちは毎日の生活の中で、今日やるべきことを予定し、自ら決めてそれを実行しているので、自らの意志で自分を支配しているように見えます。
しかし、それは錯覚であると聖書は言っているのです。
よく考えると、生まれる時も死ぬ時も自分の自由にならないものです。誰が、わたしが生まれるときを決め死ぬ時を決められるのか。
このように、自己の存在という最も根本的なことを自分で決められない者が、どうして自分の時の支配者でありえようか。
わたしたちは結果を見て、なるべくしてなったとよく言いますが、そう、神がそのように導かれたということでしょう。
神のなさることには、無理はありません。
そのような「わたしの時」を支配するのは運命ではないかという考え方がありますが、聖書は、わたしの時を支配するのは、わたしの創造者であり支配者である神であるという。
そうであるならば、創造者である支配者はわたしにとっては絶対的な存在ですから、わたしはその神に向かって、「あなたはわたしの神、わたしの時はあなたのみ手にあります。
わたしの人生のすべてあなたのみ手に委ねます」と告白し、自己の人生のすべてを御心に委ねるしかないと思う。
わたしが生まれる時も神が決められました。死ぬ時も神が決められます。この天地万物を想像され、わたしたちを創造し、支えられている神に、人生のすべてを委ねたら、もう動揺することはない。
なぜなら、その神は、限りない慈愛をもって、わたしを造り、赦し、導き、わたしを救い、わたしを愛し、完成してくださることを、キリストにあって知っているから。
反対にわたしが神から離れた時は、虚無の中をさ迷うことになると思う。まさしく仏教のいう「無常」の世界です。
なにしろわたしたちは、自分は何者で、どこから来てどこへ行くのか、なぜ、自分が存在するのか、何もわかっていないからです。
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