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2013年7月18日 (木)

宗教は誰のために

マルコの福音書2章27節

●そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。

イエスはこの27節の言葉を、ユダヤ教を代表するファリサイ派の律法学者らに向かって言っているのでしょう。

このイエスの言葉は、当時のイスラエル社会を支配していたモーセ律法の意味を伝えようとしているのでしょう。

なにしろ、イエスはそれゆえに十字架にかけられて殺されたのですからね。

ここで言いたいのは、イエスは何も律法を否定されたわけではないということでしょう。

ユダヤ教指導者層は律法を用いて、独占して自分たちの地位や権威を守ろうとしていました。

律法学者たちは、イエスが自分たちの地位とか権威を守ってきた律法を否定したと受け止めました。そして、イエスの言葉がユダヤ教宗教界を揺るがすほど影響を与えたのですね。

イエスと律法学者らとの違いは、イエスは何も律法を否定していませんから、受け取り方の違いだと思うのです。

イエスは、本来人間は自由な存在だと教え、人間を宗教(律法からの)の呪縛から解放しょうとしたのだと思うのです。

モーセ律法(とくに安息日律法はモーセ律法を代表する律法であった)を守ることは、彼らにとって神の命令として絶対なものでした。

人をないがしろにしても律法を守ることを優先していた人々でした。

イエスはそれに対し、「律法は人のためにある。人が律法のためにあるのではない」と宣言されたのです。

そのようなことはわたしたちには当たり前ではと思われますが、当時の神権社会では、律法を厳格に守ることが求められて、その律法が与えられた真意を考えなかったのです。

当時数ある律法の中でも、安息日律法はモーセ律法を代表する律法でした。そのために苦しんでいる人々を見て、イエスはこの言葉によって、「宗教は人のためにある。

人が宗教のためにあるのではない」と教えられたのです。

ユダヤ人は律法を守ることだけに囚われて、その囚われた原因が自分たちの権威とか地位を守るためなのですが、あまりにもそのことに執着して、律法を定められた意義を見失っていたのです。

当時のユダヤ教のように、律法を絶対視して、意味も考えないで、文字通り守ることを宗教原理主義と呼ぶならば、イエスはこのユダヤ教原理主義と戦い、父なる神の支配を絶対とし、ユダヤ教を相対化したと言えます。

同時に、そのことはユダヤ教以外の諸々の宗教をも相対化したということです。

現代においても、世界を見渡せば、宗教を文字通り解釈して絶対化する宗教原理主義がまかり通っています。

自分の宗教のためには人を殺してもよいという宗教原理主義は、まさに「人が宗教のためにある」という状況といえます。

そのような状態の克服は、絶対神である父なる神の支配の中に求めるしかないと思うのです。

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